4ヶ月の振り返り:忙中閑あり
オハイオから日本への帰任の内示が2010年3月、内々示はもう少し前にあったのですが、14年間住み慣れたオハイオを去るにあたってはいろいろとやる事がありました。
そしていざ去るとなるとなんだか無性に名残惜しくなってしまいました。

6月17日朝、コロンバスを発つまでの最後の4ヶ月間、この期間は名実共にオハイオ生活の締めくくりとなった訳ですが、記憶に残るいろいろな事がありました。
その中のほんの一部分を写真と一緒に紹介をします。

写真は何の変哲もないものばかりですが、それぞれ私にとっては感慨深いものばかりです。もっと整理をして記録に残しておきたい事が一杯あるのですが、少しずつやりたいと思っています。
入院・手術(1)

帰国前の最大の出来事、それは腰の手術でした。
暮れの12月、MRI検査を受けて結果が出たのが1月、そして手術が2月24日という早さでした。

骨盤と腰椎3本に合計ボルトを8本打ちこんで矯正、骨を削ってそして骨の移植という大手術でした。

手術24時間後には歩行練習、更に6時間後には階段の上り下りまでさせられました。
入院は1日延ばしてもらって3泊4日でした。
入院・手術(2)

手術後の2週間弱の苦しさは思い出したくもありません。食欲などというものは全くなく、体重は激減。
痛み止めは4時間以上間隔をあけなくてななりませんが、薬が効いているのは2時間半くらい、残りの1時間半は痛さにのたうち回っておりました。

そんな中お見舞いに来てくれた中のTさん、本をどっさり、果物どっさり、そしてワインも1本入っておりました。
ドクターからは液体燃料摂取許可は、手術2週間後に出てました。
オハイオの医療事情(1)

アメリカの医療は進んでいると言われています。
しかし国民皆保険の日本と違って、アメリカは健康保険に入れない(入っていない)人が5000万人はいると言われており、これらの人はこの医療を実質的に受ける事ができません。

医療保険もいろいろなレベルがあり、その人の経済状態でカバーする範囲が大きく違います。

オバマ政権が行った医療保険制度改革で、無保険の人を殆どゼロにするという事が決定しましたが、未だに多くの人がこれに反対しています。
オハイオの医療事情(2)

14年間に緊急でエマージェンシー窓口に駆け込んだのが3回、手術が1回、歯医者は14年間ずっと通いっぱなし、という状況で、それぞれドクターには大変お世話になりました。

病院が治療費を保険会社に請求しないで私個人に請求するという、保険の請求トラブルはよくありましたが何とか切り抜けてきました。

病院は非常にきれいで快適、ロビーではピアノの演奏をやっている病院もありました。
帰国準備

腰の手術が決まってから手術実施までの3週間、私しかできない荷物の梱包を毎晩のようにやりました。

14年間で溜まったいろいろなガラクタ、捨てるに捨てられず多くの物は日本に持って帰る事にしました。

私の家の地下室は40畳くらいの広さで、ここに普段は使わない物を収納してありましたので、相当な量でした。
家具の売却(1)

アメリカから持っていってはいけないものの一つに、アメリカの家具類があります。

ナゼ持っていってはいけないかというと、アメリカの家具はも日本のものよりも二回りlくらい大きいので、日本の家に入れると余程大きな家でない限り大きすぎて始末に負えなくなるからです。

この家具はオハイオに来て3ヶ月後くらいにモース通りの家具屋で買ったものです。
家具の売却(2)

このダイニングデーブルもソファーと同じ店で買いました。
配達の時間指定は”午前”と”午後”しかなく、午後と言うことで12時頃から待っていました。

夕方6時になっても持ってこないので、店に電話を掛けると、「私の仕事は配達を頼むことで、配達は私の仕事ではない、XXの仕事。」、と言われてガチャン、結局はその日は持ってきませんでした。

まだオハイオを理解していない頃の私はイラついたのを覚えています。
家具の売却(3)

ダイニングキッチンで使っていたダイニングテーブルと椅子。
これもオハイオ赴任直後の96年9月頃にオハイオ人から買ったものです。

普段の食事はこのテーブルで摂りましたので、14年間でもっともお世話になったと言えます。

そんな訳でこのテーブルと椅子はルールを破って日本に持って帰りました。
電子ピアノ

日本から持ってきました。かなり高級品だったと思います。持って帰るかどうか悩みましたが、もし買ってくれる人がいれば売ろう、という事で売りに出しました。

ダメかと思っていたら、帰国2週間前くらいに買ってくれる人が見つかりました。Iさんという方で、確か57才。

冬になったら練習をしたいという事でした。先生も探しているというので会社のMさんにお願いをしましたが、どうなったかな〜。
家の売却

この件だけは最後まで気を揉みましたが、帰国寸前に売ることができました。
「家を買うときは売るときの事を考えて買いなさい。」、いろいろな人からそう言われました。

でもオハイオに来て1年、どういう家が売れやすいのか、どういう家が売れにくいのか、わかる訳がありませんでした。

今考えると、この家はかなり売れにくい家の一つで、結局は不動産屋にまるめこまれて私買わされた、というのが3年くらい経ってわかりました。
日本レストランでのランチ(1)

土曜日のお昼、カミさんとこうやって時々ランチを頂きました。
このメニュー、寿司、天ぷら、ソバ、というオハイオ人が頭の中で描く典型的な日本食の”3種盛り合わせ”です。
聞くと、ナルホド、です。

このレストランは96年の赴任当時、夕食・液体燃料摂取に毎夜のごとく通いました。
当時の寿司職人3人中、14年後の日本帰国時まで残っていたのは1人、Mさんだけでした。
日本レストランでのランチ(2)

普通のトンカツに見えますが、実はフツーではありません。
何が違うかと言うと、写真ではわかりにくいのですが、このトンカツ定食、特大のトンカツが2枚なのです。

前に店の人に聞いたところ、1枚では客のオハイオ人からクレームがつくので2枚にした、という事でした。ご飯のお代わりは∞ですが、大食の私でもそんな事出来ません。
コロンバスの風景

コロンバスは人口100万人のオハイオの州都です。
コロンバスの北西部のホテルから中心方向を見た風景です。
何も見えないジャン?と言われる方がみえますが、そのとおりです。

高層建築はダウンタウンのほんの一部で、それ以外は建物が木の陰に隠れてしまうので、こういう風景になるのです。
中国から出張してきた連中が、「緑が多いですね〜」、と感激していました。
我が家の玄関からの風景

フロントヤードはそれ程広くはありませんが、それでも玄関から歩道までは10m以上はありました。
静かな住宅地でした。

夏の夕方、芝刈りを終えて薄暗くなった頃、外を見るとホタルが飛んでいました。気温は20度ちょっと、湿気なし、物音なし、人影なし。

爽やかな、実に爽やかなオハイオの夏。
これを14シーズン経験しました。
オハイオのフリーウエー

アメリカの道路の良さは世界一です。ヨーロッパも高速道路網は発達していますが、アメリカはどんな田舎に行っても広々としており、ここはヨーロッパとは少し違います。やはり国土の広さの違いでしょう。

私は14年間、オハイオの州内を駆けめぐりました。道路の両脇はとうもろこし畑、たまに大豆畑がひろかっており、この風景はインディアナ、イリノイ、ミシガンなどの中西部の各州共通の風景でした。

今はオートクルーズというものがありますので、アクセルペダルを固定させるためにレンガは必要ありません。
点在する我が社の工場群(1)

オハイオには15000人の社員が働いており、工場、その他施設は何カ所にも分散しています。
私が普段勤務する事務所からエンジン工場までは80km、45分くらいかかります。

転勤の1月前くらいから、時間を見つけてお世話になった方々への挨拶を行いました。
点在する我が社の工場群(2)

挨拶に伺う場合は、予め相手の時間の都合をお聞きしてから行くのですが、そうでない場合もあります。
結局、挨拶をしておきたかったのですが、できなかった方が何名もおりました。

一方では、何年も会っていない人に廊下でばったり会ったりした事もありました。
最後の5年間を過ごしたオフィス

14年間のオハイオ勤務では、オフィスも移動したり、仕事の内容も少し変化したりしたので、何カ所も替わりました。

このオフィスは質素ですが広々としており、まあまあの環境でした。
オハイオ人達は朝7時半始業、午後4時終業で、金曜日は一部の社員は6時半には会社に来るというスタイルでした。
オハイオ人達

14年間付き合ったオハイオ人達です。昼食中に横を通ったので写真を撮らせてもらいました。
ここに写っている連中の大半は勤続20年以上のベテランで、中には25年以上の社員もいます。

ここにいる連中はみんなよく私の無理な要求に応えてくれました。
でも最初はなかなかうまくいきませんでした。

やはりツーと言えばカーの関係を築くには最低3年、私のように5年近く掛かるケースも時々あるようです。
フィットネスセンター

ここも随分お世話になりました。
会社の福利厚生という面から会費は安く、年間カミさんと2名で24ドル(2000円くらい)でした。

フィットネスの設備一式、プール、バスケットボールのコート2面の体育館、それに各種リハビリを指導するための設備がありました。

同じ職場のオハイオ人には時々会ったりしましたが、日本人駐在員でここで汗を流すという人はあまりいなかったようです。
オフィスに入る手前の風景

この道路の300mくらい先が私のオフィスです。この道を14年間通った事になります。
雪の日の朝、この右後方の90度の急カーブで曲がりきれずに新車をメチャクチャにしてしまったのも今となってはいい(?)思い出です。

今までは何とも思わなかった風景も、いざ日本に帰るとなると何か名残惜しいようなセンチメンタルな気持ちになってしまいます。
創業時のメインオフィス

ここは30年以上前に会社がオハイオに進出した頃に建てられたオフィスで、この裏手に工場がありました。
私が1987年に初めてここに出張で来た時は、社長もこのオフィスの奥のデスクに座っていました。

このオフィスも私のオフィスも同じ敷地内ですが、1.5km近く離れているので、移動は車で行うのが普通でした。
最後のランチ

会社でのみんなの不満の一つにランチが不味い、というのがありました。
一時期は最悪で、仕方なくカップラーメンをすすった事もありました。

でも出張で来たメキシコの日本人駐在員が、「ここではこんなにウマイもの毎日食ってるんですか!?」、って感激していたのには驚きました。

私はメキシコの工場の食事は普通かな〜、と思っていたのでしたが、、、。
駆け足NY旅行(1)

日本に帰る2週間前、オハイオからの最後の旅行をしようと言うことでNYに行ってきました。

コロンバス9時出発、NYラガーディアには10時30分頃に着く予定でしたが、途中で病人が出たためNJのどこかの空港に緊急着陸。

調子が悪くなったのはかなりの歳のお爺ちゃんで、奥さんらしいのお婆ちゃんは、お爺ちゃんが救急隊員に運ばれていくのをニコニコして見ていました。
駆け足NY旅行(2)

急に飛行機のチケットを申し込むと値段が跳ね上がり、うまく買えば200ドル以下で帰るのですが今回は350ドル。
ホテルはリーズナブルな値段で予約できました。

空港からホテルまでは”高速バス”と称するバスを利用したら空港で30分待たされて、途中で1回乗り換えをさせられて結局は1時間半以上かかってしまいました。

やはりタクシーを使うべきでした。
駆け足NY旅行(3)

ホテルは6AVEと53STの交差点にあるヒルトンNYでMOMAにも近いし、周りには日本食レストランも一杯ある便利なところ。

NYに最初に来たのは1998年の夏休みでした。
カミさんと下の娘と3人で来て、NJのホテルに泊まりました。
私はオハイオに来て2年、カミさんと娘は1年という時でした。
あれから12年、何度もNYに来ましたが今度はいつ来るのかな〜、、、。
駆け足NY旅行(4)

駆け足旅行なので、到着翌日はやはり1日観光に参加しました。
1日観光はjこの前はJTBのものでしたが、IACEに言わせると有名どころは回るのだが、車窓からというのが多い、という事でIACEの1日観光に参加してみました。

ちょっとお天気が悪かったのですが、コース的にはまずまず満足。ただマイクロバスだったので、逆にバスの中から外の風景が殆ど見れませんでした。
駆け足NY旅行(5)

ロックフェラーセンター展望台に初めて上りました。今まではエンパイアステートビルの展望台でしたが、ここからの眺めもなかなかでした。

今回行ってあらためてびっくりしたのはチャイナタウンの増殖振りでした。隣のイタリータウンが完全に浸食されている感じでした。
ここに住む人は英語も覚えず、この町から出ようともせず、アメリカに同化する事はない人々のようです。

何年か先の東京もこうなるのでしょうね、きっと。
駆け足NY旅行(6)

今までのNY旅行で一番印象に残っているのはここタイムズスクエアーの新年のカウントダウンに参加したした事でした。
と言っても実際にあの人の波の中に突撃していったのはカミさんと上の娘で、私はチビチビとウイスキーを飲みながら、ホテルの窓から参加させてもらいました。

カミさん達は何のかんの言って、警官のバリケードを突破して中に入ったそうです。
駆け足NY旅行(7)

オハイオからNYは東京から新幹線で大阪に行くより簡単です。飛行時間1時間15分で行けます。

という事でいつでもいけるわ、と思っていたのでそれ程の回数は行っておりません。
気が付いたら帰国の日が迫っており。無理して行ってきたという訳です。

日本から来るとなるとちょっと腰が引けますね、NYまでは。
Welcome to Ohio

オハイオを起点として最初の6〜7年はずいぶんとあちこちに車で旅行をしましした。
写真はインディアナ・フォートウエインからUS30でオハイオに入った瞬間です。
これを見ると、「あ、帰ってきたな〜」、とほっとします。

特に印象的なのはミシガンからオハイオに入った時で、ガタガタの道路がスムーズな道路への変わり方は極端で、「あ、帰ってきたな〜」、とやはり思いました。
オハイオの田舎町(1)

これは我が社のエンジン工場があるアンナという田舎町。
小さなドラッグストアー、ガソリンスタンド、教会、そして郊外(と言っても中心部から数百m)にお墓、どの町も同じ構造です。

オハイオのこういう町は白人以外を見掛ける事は殆どありません。黒人も、東洋人も、ヒスパニックさえ見掛けません。
ものすごい保守的な、これぞアメリカ人!という人達が住んでいます。
オハイオの田舎町(2)

最後の日曜日にベルリンというアーミッシュの村に行ってみました。店は全部閉まっていました。
そうです、アーミッシュの村は日曜は休業なのです。

がっかりして帰る途中立ち寄ったミラーズブルク( Millersburg )という町です。
小さな町ですが、きちんと手入れが行き届いている、典型的なオハイオの町でした。
帰国寸前の住まい(1)

帰国前は荷物を送り出すので、それまでの住まいで生活ができなくなります。
そこで会社は家具付きでアパートを準備してくれ、ここに住みます。
1ヶ月以上ここに住んで、帰国する家族もいるようですが、私達は2週間程度住みました。

写真はアパートの入り口で建物は管理事務所で、フィットネスとかプールもあります。夜の10時以降はゲートの大きな鉄格子が閉まり、セキュリティーカードを持っていないと自分の部屋に帰れません。
帰国寸前の住まい(2))

アパートの管理事務所の前の駐車場から眺めた風景です。(上の写真の反対方向)
ずっと向こうに建物が見えますが、車で5〜6分で行けます。
一面のとうもろこし畑ですが車で15分も走れば結構賑やかな通りに出られます。
25分も走れば高層ビルが並ぶダウンタウンです。

コロンバスというところは田舎のようで田舎でない、都会のようで都会でない、日本の感覚では語るのが難しいところでした。
帰国寸前の住まい(3)

指定された部屋に行こうとしたのですが、部屋が見つからず管理事務所に行って、どこにあるのか教えてもらいました。
アパート内は車でないと移動ができない広さで、日本で言うところの何百軒も建っている大きな団地と同じサイズです。

会社までは30分で前の住まいと同じ、車で10分以内でスーパーもデパートも何でもある便利な場所でした。
売れた我が家

セールの看板は立っていますが、我が家は帰国寸前に売れました。
家を売ったというのも2月に腰の手術をしたのと同じくらいに私達にとっては大きな経験であり、出来事でした。

13年間住んだ我が家、もうこの家で生活する事はないと思うと、何だかものすごく寂しい気持ちになってしまいました。

オハイオの14年のうち13年間を過ごした、「自分の家」、だったのですから。
我が家の住人

家を売りに出した頃から鳥が玄関の天井横に巣を作り、卵を産みました。
巣は僅かな面積の部分に作られており、親鳥の出入りで下に落ちる可能性がありました。

そこでカミさんは巣が落ちないように段ボールでスペースを確保してあげました。そして卵を手でしばらく暖めてやったそうです。(ムチャクチャです。)

卵は無事ふ化して小鳥が生まれました。家を売る前日、既に小鳥は巣立って巣にはいませんでした。
最後の買い物

明日はコロンバスを出発という日、最後の買い物に出掛けました。
この店は私は14年間、カミさんは13年間お世話になりました。
ドクターが処方してくれた薬を受け取るのもここの薬局でした。

私が初めてオハイオに出張した時に買い物をしたスーパーもここでした。
ここ7〜8年でいろいろなスーパーが増えましたが、私達にとってもっとも身近なスパーがここでした。
オハイオの象徴

オハイオと言えばとうもろこし、です。
このオブジェは農協のビルの横にあって、みんなここでよく写真を撮っていました。

日本帰国の前日、オハイオ最後の夕食を摂るために日本レストランに向かう途中、横を通ったので記念撮影をしました。

いいお天気の夕方でした。
さあ、空港に向かいます

空港まで自分で運転をして、見送りに来てくれたYさんにキーを渡し、車を会社に返してもらいました。

コロンバス空港も大きく替わりました。かつては搭乗口まで見送りに行けましたが、911の後はダメになりました。
そしてゲートではTSAの職員が群がって検査、検査、検査をやっています。

かってのような、のどかな地方空港には戻らないのでしょうね。
さようならコロンバス

予定どおり、8時ちょっとに飛行機は離陸しました。
天気はマズマズで下もよく見えます。

この4ヶ月、特に2ヶ月くらいはいろいろな事がありました。本当に全部終える事ができるのかと不安になったりもしました。

でも全ては終わりました。さようならコロンバス!
2月24日に手術を受け、何とか立って歩いて普通の生活に戻れたのが3月末でした。日本への帰任は6月17日、いろいろな準備期間は実質的に2ヶ月半しかありませんでした。
14年間生活をして、仕事をしたオハイオ。全てを、「閉じる」、のはやはり大変な事でした。いろいろな人の助けがあったからこそできたのでした。

オハイオの14年は実に充実した14年でした。但し、オハイオに来て得たものの大きかったのですが、失ったものもあるのは事実です。
オハイオの14年を総括するには多分、帰国後1年以上経ってからやるのがいいかな〜、と思っています。
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