16−06−18 スナップショット
フィリピンの会社に赴任して1ヶ月、仕事も生活もまだまだ安定していませんが、そんな私の状況とはお構いなしに日は過ぎていきます。
フィリピンの会社に来る前は日本の社長(フィリピンの会社の会長)からは、「心配いりません、フィリピン人のスタッフは優秀で仕組みは出来上がっています。
技術的な事は日本がサポートします。」

と言われてきました。確かにスタッフはVP(副社長)以下、大変優秀です。よく観察すると考え方は日本人より遙かにオハイオ人に近い感じがします。
ただ様々な違いはあり、その中の最大のものが、「自己主張が極めて少ない」、という点です。

それと答えは、「YES」、でも本音はそうでない、しかしそれを口に出しては言わない、というところも既に感じる事が度々あります。
日本人は私ひとり、実務をこなすのは全てフィリピン人スタッフ、フィリピン人とはどういう人達なのか、これをテーマにこれから日々の仕事に励んでいきます。、
会社

フィリピンの会社は金型、プレス部品加工という業種です。社員は約130名です。

金型加工についてはフィリピン人スタッフの技量が非常に高く、こちらで図面を書いて日本で検証しても大きな変更を受ける事は希です。
プレス部品の生産も安定しています。
地鎮祭(1)

会社は金型の生産能力を飛躍的に高め、方々をASEAN各国、将来は北米とか日本にも輸出しようと新工場の建設を始めました。

私は着任3週間後で、地鎮祭を行う事になりました。どうやってやるんだろ?
VP(副社長)のRAさんに聞くと、「簡単、簡単、気にすることはありません、、、、」
地鎮祭(2)

フィリピンですから神主さんはいません。
お祈りは近所の教会の神父さんがやります。
何やら一杯読んで、この後神父さんの後をついて建築予定地の周囲を歩きます。

神父さんは大きな声で何かを言いながら水を撒きます。
地鎮祭(3)

この後、2人ずつで鍬入れをやります。
赤い服の女性はPEZA(経済特区)エライさん、男性は私の前任者の社長。

穴の中にはタイプカプセルが肺っています。
中には新聞とかです。

このあとスピーチがあり、私がトップバッター、かなり緊張しました。
地鎮祭(4)

一応の式次第が終わった後は簡単な食事会です。
これには来賓と我が社の社員の代表も参加してみんなで頂きます。

和気あいあいとみんなでお食事、これが楽しみでみんなニコニコです、、、。
工事開始(1)

翌日から工事は始まりました。工事エリアの周囲を囲って、基礎工事から開始です。

工場は2000uに近く、かなり大きな工場です。この工場が建つと9000uの敷地はほぼ一杯になり、拡張するには隣の撤退した韓国企業の土地を買うしかありません。
工事開始(2)

当然の事ながら亜多くの機材、作業員が入ります。
私とRAさんで現場巡視をしてみました。

ヘルメットを被っていない作業員がいたので指摘。RAさんは作業員には揃いのTシャツを支給するように指示。

これは余計な連中が混じってきても直ぐに識別できるようにするため、だそうです。
工場の中

現在工場は2つの建屋に別れており、プレスマシ、金型加工関連の設備、その他の機械でびっしりと埋まった工場です。

工場にクーラーはありませんので、基本的に温度は外気と同じ、今の季節ですと35℃近くになります。

何とかしてやりたいのですがどうしようもありません。
社印食堂

社員は10時の休憩のときに食事をする者が結構います。
朝も始業の0800前に来て食事をする人もいます。
私もランチで食べてみましたが、味はまあまあでした。

コーヒーとペットボトルは会社負担で無料にしてあります。
私の住んでいる街

私はフォート・ボニファシオ、またの名前をグローバルシティーというところです。
マニラの西、6kmくらいのところにある、近代的な街です。

会社までは朝は50分〜1時間、帰りは時間帯にもよりますがもう少し掛かることがあります。
私の住んでいるコンドミアム

住まいはゴルフ場に隣接した40階建てのコンドで、そこの34階に住んでいます。

受付には昼間は愛想の悪いオネエちゃん、夜は警備員が座っています。

1階にはフィットネス・ジムもあるので大いに利用したいところです。
バッラク住まい屋

大きなコンドなどが建ち並ぶ地域を少し外れるとこういう街並みが高速道路からよく見えます。

フィリピンの貧富の差は桁違いで、日本が格差社会とか言って騒いでいますが、フィリピンからすると何を言ってるの?、という事になります。
近所のショッピングモール(1)

私の住むコンドから歩いて15分くらいのところに大きなショッピングモールがあり、そこの広場では果物を大量に売っています。

歩いて15分というのは今の季節、ちょっと歩く気がしません、、、。

今はマンゴとパイナップルが季節のようで、おいしいものが安く手に入ります。
近所のショッピングモール(2)

フィリピン人は魚もよく食べます。
でもやはり南方の魚は日本で売っている魚とは少し違います。

それに川魚も盛んに売られています。これは巨大なナマズです。
どうやって食うんだろう、、、、。
交通渋滞

マニラ近郊はどこに行っても激しい交通渋滞です。信号機もほとんどありません。
渋滞のひどさはタイのバンコックにも決して負けません。

私のドライバーはサミー君、会社ができてから日本人社長のドライバーをやっってきて無事故だそうです。見ていると慎重なドライブで安心できます。
マニラ大聖堂

マニラ近辺はあまり観光をするところがないのですが、その中のいくつかを尋ねてみました。
この大聖堂は太平洋戦争で破壊されたそうなのですが戦後再建されたものです。

中のステンドグラスが見学に値します。大パイプオルガンも壮大な音を出していました。は。
サンチャゴ要塞(1)

スペインがフィリピンを植民地化したときに建てられた要塞です。
川の河口に位置しており、海上脱出も可能な絶妙な位置にある、と見受けました。

スペインからの独立を訴えた英雄ホセ・リサールに関する遺品も多くありました。
ゆっくりと見たかったのですが、とにかく暑くって、、、、。
サンチャゴ要塞(2)

ここは日本が占領時代は憲兵隊本部が置かれていました。
マニラ市街戦ではフィリピン人10万人が犠牲になっていますが、殆どは米軍の無差別砲爆撃によるものです。

要塞の中にはすざましい弾痕が残る建物がいくつも残っています。
アメリカンセメタリー(1)

フィリピンで戦死したアメリカの兵隊17000人の墓標があるところです。
周囲の喧噪とはかけ離れた環境で、広大な敷地は見事な芝生で覆われています。

17000人全員、氏名・階級・所属・出身地が墓標に刻まれています。
アメリカンセメタリー(2)

記念碑の中にはフィリピン戦線で日本軍をどうやって駆逐していったのか、詳しく説明されています。
これによるとマニラ湾の底には無数の日本の軍艦、商船が眠っている事になります。

1941年にマッカーサーを追い出した日本は3年後にマッカーサーの再上陸を許すことになりました。
アメリカンセメタリー(3)

フィリピン全域で戦死した日本軍将兵・軍属は50万人だそうです。
これら我々の父親の世代はどんな戦をしたのか、丹波五郎、大岡昇平、山本七平などの戦記を読むとよくわかります。

50万人の英霊の殆どは未だフィリピンの野山に眠ったままだと聞いています。
リトル東京(1)

私の住んでいるグローバルシティーから20〜30分のところにあります。
日本レストランが集中しており、日本の食材店も2軒、あります。

サウナ・マッサージもあってここで1週間に1度は来てリラックスする事になりそうです。
サウナが目的と言うより、暑い湯船に入る、というのが目的です。
居酒屋

リトル東京のあるマカティーには他にもたくさんの居酒屋、日本料理屋、ラーメン屋などがあります。

値段的には日本の居酒屋と同じくらいで、手軽に行けます。客は日本人に混じってフィリピン人なども結構来ています。

いずれにせよ駐在員の憩いの場所ですね。
仕事も生活も時間が経てば慣れていきます。
しかし毎日がいろんな意味でカルチャーショックです。多くの同輩はのんびりと退職人生を送っていますが、私はもう少しだけ現役人世を送ってみようと思います。
こんな経験、なかなかできませんからね。。
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