15−12−21 次の世代
種子島と言えばかつては鉄砲伝来の地、今は"種子島宇宙センター"で有名です。
20日はYMさんの案内で島の南端に行って宇宙センター、博物館などを見学しました。

島内の道路はよく整備されており、交通量も少なくのんびりとドライブをする事ができました。YMさんは前夜の液体燃料注入の後遺症が残っており、私の運転で島内見学を行いました。

YMさん夫妻が購入した高台の土地も見せてもらいました。
眺め優先であれば海が見えるところになる訳ですが、そうではない場所にした理由を聞いてみると潮風による影響を避けたかったからとの事でした。

退職して10年、三重県亀山市に住んで40年、70才を越してからの種子島への移住、いろいろと考えるところがあったのだと思います。
YMさんには子供がいないので、そういう事も含めて人生の終末を考えての判断だったと思います。

以前は三重県にずっと住むという事を言ってみえました。
しかしYMさん自身は北九州の出身、奥さんは種子島の出身、兄弟親戚もほとんど島の中にいるとの事、種子島はゆったり過ごすにはいいところのように思えました。

西表港から宇宙センターまでは車でゆっくり走って1時間、道路は行き交う車もほとんどなく、実にのんびりしたところでした。
ロケットの発射などのイベントがある時は島にはたくさんの人が訪れ車などもお増えるそうですが、それ以外はシンと静まり返っているところです。

定年になってここに来る人も少なからずいるそうで、私もこういう島に永住するのも悪くはないな、と思った程です。
今の日本はどこに住んでも生活の利便性、様々な情報の量、その他の違いはありません。

強いて言えば医療体制の充実度の違いでしょうか。これさえメドが立てばどこに住んでもいいのではないかと思うようになりました。

YMさんはあと10年、15年、ここで静かに暮らすのでしょう。
会社に入った直後の30才ちょっとの頃、生意気にいろいろと意見をぶつけた私を諭してくれたYMさん。
私の家に来たときはまだ幼稚園児だった私の娘達を可愛がってくれました。

50才を過ぎてからロッククライミングを始めて退職してからはスイスまで遠征に出掛けたYMさん。
YMさんは私と同じ会社に入る前は水産会社でカリブ海のセントマーチン、それに北アフリカのカナリ-アイランドのラスパルマスに駐在しておりました。

その頃の話をする時のYMさんの目はいつも遠くを見ているのが実に印象的でした。
私はあと何度種子島に来ることができるのか、どうかお元気でお過ごし下さい。。
種子島に1泊、翌日の午後遅く鹿児島市に戻り、ここで2泊です。
鹿児島市は40年ぶりです。覚えている地名は"天文館"だけ。その天文館のど真ん中に泊まるホテルはありました。

ホテルは15年くらい前から使っているリッチモンドというホテルで、部屋もバスルームも広いのが気に入っています。

下関から宅急便で送ったスーツケースはちゃんと部屋に入れてあり、こういうサービスも悪くないホテルです。(萩のホテルなんか、こちらから言うまでフロントのに放り投げてあった)

昨夜、種子島でYMさんと痛飲したのでこの日の夕食はアルコール抜きで軽く済ませました。
翌日は市内をブラブラするのもよかったのですが、知覧まで足を延ばしてみました。
知覧は太平洋戦争末期の陸軍の特攻基地のあったところで、いろいろな小説・映画にも出てくる有名なところです。

天文館のバス停からバスに乗って1時間半、山の中という程ではありませんが、とにかく今でも人里離れた大地の上にある知覧。
辺鄙、という言葉がふさわしいところから数百人の若者が二度と還らない特攻機に乗って出撃をしていった、、、。

以前から話にはきいていたところでいつか一度は行ってみたいと思っていました。
バスにはコロコロとしたオバサン3人組の観光客が乗っておりこの人達も知覧の特攻記念館に行くのかと思っていたらその手前の武家屋敷入り口で降りていきました。

知覧の基地の跡にはその名も"特攻記念館"という建物があって死んでいった将兵の遺書などが展示されていました。
陸軍の航空特攻で戦死した将兵は1036人、知覧から出撃していったのは約470名とありました。

特攻戦死者を出身県別で見ると東京が最も多く86名、三重県は18名でした。

全ての方の名前・生年月日・出身地名・出身校などが名簿で見れるようになっていました。

三重県出身のところを名簿で見てみると、私が育った津の住まいから数kmのところの出身の方がみえました。

この方の名前は奥山道朗大尉、沖縄戦で米軍占領の読谷飛行場に強行着陸、破壊をするため12機168名の指揮官であったとありました。

出撃の瞬間までの写真が何枚も残っており、メガネを掛けて体格のいい人、学校の先生のような風貌に見えました。
年令は26才、特攻出撃の95%が18才〜23才くらいなのでこの方は年令としてはうんと高い方に入ります。

168名はどんな気持で往ったのか、それらは残された遺書を読むとよくわかりました。
実に純粋、これ以外の言葉は見当たらない内容でした。
そして多くの方は辞世の句も残していました。

奥山大尉: 「吾か頭 南海の島に 瞭さるも 我は微笑む 國に貢せば」
特攻記念館には多くの遺品が展示されておりその中で目立つものはやはり何と言っても遺書でした。

便せんに鉛筆で書かれたもの、ペンで書かれたもの、半紙に筆で書かれたもの、殆どが実に筆筋のいい文字で書かれているのには驚きました。
印象に残ったのは19才の伍長が母親に送った遺書でした。

「、、、、、木々は青く、空には雲が浮かんでいます。ここ(知覧)は既にセミの声も聞こえます。木々は緑で空は青く、白い雲も浮かんでいます。これらを見ているとどこに戦争があるのか、錯覚を覚えます、、、、、母上様、私を誉めて下さい、、、、、では往ってきます」

本当は母上様の後には”悲しまないで下さい”、と書きたかったのでしょう。
そしてそれを書くのを憚れる何かが当時はあったのでしょう、
これを読んで私は涙が止まりませんでした。

知覧から鹿子島への帰りのバスの中、私はいろいろな事を考え続けておりました。

上層部は本気でこういう戦法で戦局を打開できると考えていたのか。

できると考えていたのなら阿呆の集団であったと言えるし、できないと考えていたのならナゼやったのか、という事になる、、、。

そもそも勝てない戦争を始めた事が問題ではないか、ナゼ勝てないとわかっていたのに戦を始めたのか、、、始めるように追い込まれたのか。
では追い込んだのは誰か?、、、etc。

知覧から出撃して戦死した特攻隊員は私の父親の世代です。
生き残ったこれらの世代の人達が日本を蘇らせ、それを我々の世代が引き継ぎ、我々の世代も既に多くの者が第一線を退きました。

次の世代もその先の世代もこのような事が起きないよう、心から祈らずにはいられません。
inserted by FC2 system