14−10−04 変化は?
オハイオに赴任する社員に対して私の会社の方針は社宅などを会社として準備しないというもので、住む場所は自分で決めて自分で手配する、という事になっていました。

選択肢は日本と同じで2つ、レンタル(アパート又は一軒家)、又は購入でした。
不動産屋だけは会社で紹介をしてくれたので、私はその不動産屋を通じて家を購入しました。

不動産屋は先ず私が買わないだろうという何軒もの家を見せ、そして最後にこれだったら買うだろうという物件を見せて買わせるという方法をとりました。
結果的にはもう少し良い条件で買えた、というのが2〜3年経ってから判りました。

不動産を購入するのは日本国内でも難しい事で、外国での購入だったのでこれはやむを得なかった事だと思います。

それでも購入した家は4ベッドルームで広く、カミさん、下の娘の3人で住むには十分なものでした。

結果的にこの家には13年間住む事になりました。家ではいろいろな事がありました。

ファミリー・ルームの水漏れ、地下水のくみ上げポンプの故障、ディスポーザーの故障、屋根の雨洩れ、雹(ヒョウ)による外壁他のダメージ、フェンスの倒壊、ディッシュウオッシャーの故障。

右隣の家と裏の家の境界線のトラブル2回、これには参りました。会社のオハイオ人の中には、「SHIN、敷地に入ってきたらライフルで撃ち殺せ!」

後は真冬の暖房装置の故障2回、クーラーのトラブル3回、湯沸かし器の水漏れと故障。その他もう数え切れない程の問題がありましたが、会社のオハイオ人達の協力も得て全部乗り切ってきました。

自分の家を持つというのは実に様々な事があるのですが、私は14年間のオハイオ生活のうちの13年間を"自分の家"に住んだというのはオハイオに愛着がわいた大きな理由のひとつではなかったかと思っています。

その元の自分の家、行ってみました。
たった4年しか経っていないのですが通りの雰囲気がかなり変わっていました。

1999年だったかコートの、ある住人の提案でフロントヤード横の歩道に木を植えたのですがこの木が4年前より更に大きくなっていました。

高さは優に10mを超える木になっていました。
コート内はフロントヤードだけでなく道路まで落ち葉が散らかっておりました。

コート内は15軒の家があり最大時は6世帯もの日本人が住んでいた時期もあったのですが、今は日本人は誰も住んでいない雰囲気でした。

住宅地の中で見掛けない人間、しかも東洋人が車を降りて写真を撮りまくるというのは非常に目立つので、車でゆっくりと動きながら私達が住んでいた家を見てきました。

アメリカの住宅地らしく、通りに人影はなく、静まりかえっていました。
この日の昼食は赤い花という日本レストランに行ってみました。このレストランはアメリカ人ににかなり人気のあるレストランという事で昔から客の殆どはオハイオ人です。

久しぶりに入って見るとかなり広い店内に日本人らしき客の姿は数えるほどで、あとはオハイオ人と中国人の姿でほぼ満員になっていました。

カミさんと2人なので寿司カウンターに席をとってもらい昼食を頂きました。

寿司職人のHさんは私がオハイオに赴任した時からみえる唯一の職人さんでクリスマスツリーを売ってもらったりした事もあり、親しく口をきいて頂ける人のひとりです。

ここの人気メニューのランチボックスを頂きながら最近のコロンバスの変化についてMさんからいろいろと話を聞くことができました。

やはり以前との違いは中国人客の増加についてでした。

これらの中国人は若い連中、つまりOSU(オハイオ州立大)などの学生で、ポーンと250ドルもする刺身の盛り合わせを頼んで、その他の料理を食べて飲んで500ドルくらいを訳なく払っていく、というものでした。

Hさんはこういう連中のバックグランドをよく知っており、
「中国人達が国がおかしくなった時に逃げるための露払いで子弟を送り込んでいるのですね、彼らはそういう事ができる連中の息子・娘達なんですね。」

汚職で桁違いの蓄財をしている連中(国家の首脳連中も含めて)はちゃんとそういう事を考えている訳です。

それとアメリカで生まれた子どもはには多くの国がやっているようにアメリカ国籍を与えるので、中国人相手のアメリカで子どもを産むビジネスがあり、行列ができていると話題もあります。

Hさんも30年近くアメリカで仕事をしており娘さんはすでに大学生です。
将来のアメリカ生活を考える上での大きな課題は医療であると仰ってみえました。

保険会社から病気で行ってもいい病院などが指定されており、それ以外に行くと保険が適用されないとか、使う薬まで保険会社で決められているとか、保険料が半端ではないとか、です。

Hさんによると私が赴任当時職人でいたMさんは既に日本に帰ったとい事を言ってみえました。

Hさんは将来、どういう判断をされるのでしょうか。

やはり我々企業の駐在員にはわからない世界がいろいろとあり、アメリカ社会の厳しさの一面を垣間見たようでした。

食事を終えて帰ろうと思って席を立ってテーブル席の方を見ると、13:30を過ぎているのにまだ満席。やはり人気のあるレストランである事がよくわかりました。

Hさん、元気で頑張って下さい。

この日でコロンバス滞在7日目です。
4年前との変化点は何か、いろいろありますが先ず車がうんと増えた事です。

特に夕方のI−270、それと交差する主要道路の混み方は異常です。時間で言うと16:00頃から18:30頃でしょうか。

ここに住んでいたいた頃、平日のこの時間帯のコロンバスで車を運転する事は殆どありませんでした。
(工場はこの付近から50km以上離れている、またこの時間帯はまだ仕事の真っ最中)

それでも経験した範囲での記憶と比べると段違いです。

それと街中のガソリンスタンドで私のクレジットカードが使えなかった事です。

こちらのガソリンスタンドはほぼ100%が日本で言うところの”セルフ”で、支払いは日本と同じようにクレジットカードでやります。

クレジットカードで支払いをしようとするとZIPコード(郵便番号)の入力を求められ、これがカード会社に届けてあるカードの持ち主の住所のZIPコードと一致しないクレジットを受け付けてくれません。

私はアメリカのクレジットカードを持っていますが住所は日本になっているので、これを入力してもダメです。

仕方なくカウンターに行き、給油する予定額を現金で払い、それで給油をします。
給油量が払ったお金以下であれば、再びカウンターに行き、お釣りをもらいます。

払った金額では満タンにならなかった場合はもう一度カウンターに行って追加の現金を払います。
非常に面倒です。

これはいつからそうなったか聴くのを忘れましたが、2010年に買える頃はありませんでした。

またスタンドの中には未だZIPコードの入力を要求しないところもあり、実施状況はまだ100%ではないようです。

こういう仕組みになったのは盗難カードでの給油などいろいろと問題があったからなのでしょう。
カードを結んでも持ち主のZIPコードはわかりませんからね。

もしそうだとしたら日本のように”暗証番号”を使わないところがアメリカらしいですね。

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