14−09−30 懐かしい顔、顔、顔 |
オハイオで過ごした14年間、会社では多くの苦しかった事、嬉しかった事、楽しかった事、悔しかった事、本当に様々な経験をしました。 オハイオの会社の駐在社員として自分の目標を達成するためには、自分の考えをいかに伝え、そしてオハイオ人達の協力をどのように得るか、これで決まります。実務はオハイオ人がやるのですから。 これは最初の上司であるKMARTさん、それに前任者のSKさんに何度も口酸っぱく言われました。 私が自分の部下のオハイオ人を自分の意思でかなり自由に動かせるようになったのは駐在社員になって5〜6年目くらいからです。 この間は会社のナンバー・ツーのところで命令系統が日本人とオハイオ人で2つに分かれるという、とんでもない時期が続きました。 ![]() これを私とある日本人駐在員は"寿司ライン(日本人命令系統)"、ハンバーガーライン(オハイオ人命令系統)"、等と呼んでいました。 これによって部・課レベルで大混乱を引き起こしており、これがなかったらもっと短期間で組織を動かせるようになっていたと思います。 それはともかく、この時期を過ぎた頃からオハイオ人との関係も急速に深まり、お互いに腹を割って話ができるようになりました。 オハイオ人達の様々な支えがあったからこそ、私は14年間もオハイオの会社で勤務する事ができたと思います。 またオハイオは私達にとっては外国であり、生活上の様々なトラブルも数え切れない程おありました。 ガス代金のご請求から始まって、家の境界線のもめ事までいろいろあり、これらの問題は会社のオハイオ人の助けがなければ私だけでは解決に時間が掛かる、あるいは不可能なものばかりでした。 会社のオハイオ人達はこういう生活上の問題についても私達を助けてくれました。14年間の外国生活を割とスムーズに送る事ができたのも会社のオハイオ人のお陰です。 何人かの生活アドバイザーを持つ、これも外国生活では重要な事でした。 日本に帰って4年、そんな会社のオハイオ人にもう一度会ってみたいと思っていましたが、今回それを実現する事ができました。 |
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私が担当していた組織は工場から数キロ離れた所に新しく建てられたオフィスの中に移動していました。 この日はカミさんも同伴でこのオフイスに行ってみました。 新しい駐在員のWKさんとここの責任者のオハイオ人のMZさんには予めオフィスの中を皆に挨拶のために歩き回りたい旨の連絡を入れてありました。 既に会社を退職した者が私用でオフィスの中を歩き回るのは普通はあり得ないのですが、彼等は快く受け入れてくれました。 入り口でWKさんに会い、中に案内してもらいました。ナゼか少々ドキドキしました。 広い新しいオフィスの中に入ると懐かしい顔が一杯見えます。途端に懐かしさで一杯になりました。 ![]() 入り口にいたオハイオ人から順番に挨拶をして行きます。みんないろんな話をしてくれるので、なかなか先に進みません。 どのオハイオ人とも10分でも15分でも話したいのですが、時間が許されません。既に退職した身分の私があまり長時間いて仕事の邪魔をする訳にも行きません。 オフィスの第一コーナーを回ったところで何人ものオハイオ人が席を離れて寄ってきました。DEさん、JJさん、その他ずっと、ずっと一緒に仕事をやってきた連中です。 私は嬉しくて嬉しくて、こんな気持ちになったのは本当に何年ぶりでしょうか。 カミさんは最初は私の後ろにいたのですが、途中から休憩所で待ってもらう事にしました。カミさんは直接会社とは関係のなかった立場で、何人かのオハイオ人は知っていますがこういう場面にいても意味がないからです。 あっ、DSさんもいる、KAさんもいる、JHさんもいる、みんなに声を掛けて少し話をしながら広いオフィスを歩いて進みます。4年の月日を感じたのは新人が全体の5分の1くらいいた事でした。 BSさんは私のところに寄ってきて声を掛けてくれました。 ひととおり事務所の中をぐるっと歩いて挨拶をするのに40分くらい掛かったでしょうか。 多くのオハイオ人に、「SHINは仕事を辞めて生き生きしている、それに少し痩せた、とにかく元気そうだ」、と言われました。お世辞にしてもオハイオ人から言われるのは嬉しいものです。 確かにオハイオを離れる時は腰の大手術の4ヶ月後でかなりやつれていたので、そのイメージが最後に残っていたかも知れません。 |
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ひととおりオフィスの中を回って休憩所に行くとカミサンが待っており、駐在員のWKさんとTKさんを交えてと少し話をしました。WKさんは1999年から2005年まで私のところにいて、帰国後管理職になって2回目の駐在、TKさんはこれから目一杯経験を積んで伸びていくであろう30才ちょっとの若い駐在員です。 |
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