14−06−15 関宿にて
日本の35〜40年後における年金の予測が厚生省から発表されました。
物価上昇率、賃金上昇率、年金の運用利回りなどの要素を8つのケースに分けて、いくらくらい支給されるか、そしてその金額が現役時の収入に対してどれくらいの割合になるか、というものです。
ちなみにこの時点での平均寿命の予測は男84.2才、女90.9才(!)で出生率は1.35で固定です。

結論から言うと、一番現実的な予測では現在価値に置き換えて15.9〜13.6万円程度となっています。(厚生労働省は現在価値への置き換えをやっていないので私が計算をしてみました)
現在の年金が21.8万円なので今の3分の2程度になるという予測です。

こういう予測が出たからにはどうするか?
泣いても喚いても怒り狂っても解決はしません。要するに払うお金がなくなる、つまり、「ないものはない」、のです。
支給金額が現在価値で仮に12〜13万円という事になると、生活するにはこれと同額以上、2倍くらいの金額が不足する事になります。

じゃ、どうするか。対応策は簡単です。働いている間にしっかり貯蓄をしておく、遺産などが期待できない人はできるだけ長く働いて収入を確保する、の2つしかありません。
経済成長率が7%とか10%になって出生率が2.5くらいになれば話は別なのでしょうが、これは奇蹟でも起きない限りあり得ません。

テレビを見ていたらかつて政府が、「今の年金の仕組みは100年は大丈夫と言ったではないか、ウソをついたのか!」、とか言って犯人捜しをしようと騒いでいた評論家がいましたが、そんな事しても何も解決はしません。

今から10年以上前から民間のシンクタンク等は、「将来の年金支給開始年齢は70才以降、そして支給額は今の半分以下にしないと制度は維持できない」、という事をはっきり言っていましたし、今も言っています。
つまり国民も政治家もマスコミもみんな現実に目を向けなかっただけで、厚生労働省の役人が作ったウソを盲信しただけなのです。

こういう状況に対して最近は世代間の格差に注目されており、近い将来、「次世代のために」、とかの理由で今の年金が近々にドーンと減額されるのは120%間違いないと私は思っています。
問題はそれがいつ頃実施されるか、だけです。10年くらい先、いや、もっと先?いやひょっとしたら5年後くらいに一発目の減額があるかも。

それと年金が当てにならないから払わないと言っている人たち、この人たちは年金はありません。ゼロ、です。
政府の予測は金額が減りますと言っているだけでゼロになるとは言っていないのです。これもマスコミ・国民はもっとはっきりと言うべきだし、認識すべきです。

いずれにせよ、今の30代、40代より若い世代の方はできるだけ貯蓄をして下さい。
それと65才と言わずに70才、あるいはそれ以上まで働くのは普通になりますから今から心構えしておいて下さい。

年金を受け取る人口が増えてるのに働く世代の人口が減る、そして経済の大きな成長は望めないのですから、今と同じ年金を将来ももらえると思うのが大きな間違い、という簡単な話です、要は。

2週間前にYAさんと私で九州種子島に帰るMBさんの送別会をやりましたが、今度は別の企画による送別会が11名のメンバーで亀山市の関ロッジで行われました。
こういう送別会は何回やってもいいと思っていますので、私も参加してきました。

今回の送別会、ちょっとしたサプライズがありました。
サプライズとは30年振りに顔を見せた2人の女性元社員の事です。

ひとりはHGさん、もうひとりはRMさん。実はふたりとも私にとっては思い出のある人たちで、MBさんが主役の送別会ではありましたが、私ははしばし昔の思い出話に2人と耽ってしまいました。

30年ちょっと前、HGさんは短大を出たばかりで私とは同じ職場でした。
彼女は数年で会社を辞めたのですがそれまでの間、ほとんど私の隣、たまに前に座ったりしておりましたので毎日顔を合わせていました。

そしてHGさんはたくさんのエピソードを残してくれました。
彼女は入社してすぐにオリベッティーの高価なタイプライターをおねだりして会社に買わせました。確か40万円くらいしたと思います。

このタイプライター、HGさんが退職したら誰も使わなくなってしまいました。
それでその後長い間みんなで書類棚の上で埃をかぶっているそのタイプライターを、“TEちゃん”(HGさんの愛称)と呼んでいました。

HGさんは入社して1年半くらい経った頃、7泊8日の冬のヨーロッパ旅行に行きました。入社して1年半で1週間以上の休みをとるというのは当時は、「ウーン、、、」、という感じでした。ま、それはいいのですが旅行費用を聞くと13万円だったか15万円!

これを聞いたみんなは、「TEちゃんは客室ではなく貨物室でヨーロッパに行ったんだ、それに違いない!」、などと揶揄していました。
当時はどんなに安くても、たとえ冬であってもヨーロッパ7泊8日旅行は確実に20万円以上はしていました。

でもHEさんはちゃんと帰ってきました。みんなの揶揄をよそに、「楽しかった〜?」、とあっけんからんとしていましたっけ。

もうひとりのRMさんは職場は違ったのですが、何かの機会で一緒にお茶を飲んだ時に知りあいのINさんに見られ、「Nさん、このまえショップで一緒にたあの子、私の義理の兄と見合いをさせてもらいたいのだけど紹介してくれる?」、と言われたのでした。
どうもINさんはRMさんを以前から目に止めていたようでした。

そこで私はさっそくRMさんにこの事を話したのですが、RMさんには既に将来を約束した人がおり、その話はなかった事になってしまったのでした。

実はそのINさんの義理の兄というのは私の高校の同級生で、中学校の教員をやっているIT君でした。
RMさんの顔を見ているとそんな事を思い出してしまいました。

RMさんは私の家に来た事もあり、その時にまだ小さかった上の娘にかわいいワニの小さなポシェットをくれました。
これは数年前まで何と私が旅行の時の小物入れ使っておりました。この事をRMさんに言ったら彼女、そのポシェットの事は覚えていると言っていました。

HGさんもRMさんも50才を越えて既に孫がおり、その写真を見せてくれました。でも2人とも昔のままの表情でしたよ。お互いに年相応にはなりましたけどね。。

翌日は朝食を頂いたあと解散。MBさんとYAさん、それに現役のMTさんの4人はそのまま帰宅せず、東海道関宿の散策に行く事にしました。
私の住まいから車で30分以内には東海道の宿場が4つあり、その中の関宿というのは53次の47番目の宿です。

ここは当時の建物の保存・修復が行われており、観光地になっているのです。
関宿は宿泊した関ロッジから1kmくらいのところにあります。平日なので観光客は殆どおりません。

宿場は建物はさすがに昔のままという訳にはいきませんが、通りは昔の面影を残しており、町並みは注意深く保存されているようです。

そして旅籠の一部は中に入って見る事ができます。昔の家というのは鴨居が低い事、階段が狭くて急な事、畳が大きいのが特徴です。

風呂も昔のものを見る事ができましたが風呂桶は驚くほど小さく、そして洗い場も狭く、やはり昔の人は現代人と比べると小柄であったのがよくわかりました。
芸妓の置屋も残っており、表の格子戸から芸妓の顔が見えそうな感じがしました。

それとここに来るまで知らなかった事が、”関の山”の語源についてでした。“関の山”、とは“もの事を行いうる最大の限界”、と広辞林に載っています。
これは関宿の夏の祇園曳山祭りで使う“関の山車(やま)”が狭い街道ではギリギリ目一杯だったという事から、「関の山」、になったそうです。

この“関の山車”は現在も4台が残っており、格子越しに見る事ができましたが、7月になるとこれを出して優雅に曳き廻すそうです。

関宿は建物とかその中にある展示物などの説明が貧弱で、見学をしてもイマイチよくわからないところが多かった、という印象を受けました。
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また入場料を取って見学をさせている旅籠のオバサン、「見せてやっているんだ」、みたいな横柄な態度にはムッとなってしまいました。

関宿は観光地ではあるのですが、説明のボランティアーもいる様子もなく何となく、「勝手に見たいところ見ていって下さい」、みたいな雰囲気であまりいい印象を受けませんでした。

4人とも昨夜は飲みすぎたせいか、少々バテ気味でしたがブラブラと歩いて茶店でカキ氷などを食べてお昼前には見学を終わり帰途につきました。

今度は二日酔いではなく、ピシッとしている時に来よう、、、。

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