13−07−31 節目をつけました |
オハイオから帰って2年と11ヶ月弱が過ぎた今年の5月上旬、私は会社を辞める決心をしました。 |
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KMさんに退職したい旨を告げてから約10日後、人事発令が出るのを待って社内外の関係のあった方々に対して退職する旨をメールと電話で連絡を始めました。 メールは個人宛に80通くらいを出したと思います。もちろんオハイオ人宛にも20通近く出しました。1名を除いて全員から返事が返ってきました。 直接メールを出した以外のオハイオ人からもたくさんのメールをもらいました。恐らくMZさん他の人がミーティングでPRをしてくれ、それがみんなに伝わったのだろうと思います。 オハイオからこんなにたくさんのメールをもらうとは思っていなかったのでびっくりすると同時に大変嬉しく思いました。 ![]() 私の覚えていないエピソードなどを書いてくれていた人、10年以上前の出来事を覚えていてくれた人、一番びっくりしたのがSSさんメールでした。 「SHINが私に説明をするいために書いてくれた図解とメモは私が受けた指導の中でもっともインパクトの大きかったもので、これはずっと手許に残してあります」 というメールでした。 それは2002年頃だったと思いますが、ある問題に関してその問題の範囲決定のロジックの事だと思います。 これをSSさんに教えるときに使った図・表・グラフの事を言っているのだと思います。自分でも全く忘れていた事だけに本当に驚きました。 またオハイオ人達からの連絡に共通な言葉は " Congratulation and Happy Retirement ! " でした。 退職は自分で決めた事とは言え心の隅にあった、ちょぴりした寂しさのようなものが彼等からのメールを読んでいると、消し飛んでいくのがわかりました。 いろいろな表現でしたが日本語で言うと、「イイね、羨ましいよ。これからやっと自分の人生を楽しめるのですね!」、というような非常にポジティブな言い方ばかりでした。 オハイオ人からのメールは、バラ色の生活とまではいかないが、これからは人生で一番充実した時を迎えるのだ、、全く別な生活が始まるのだ、という明るい気持ちにさせてくれました。。 |
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私自身は退職はオハイオから日本に帰った3年前であったという気持ちが強く、日本に帰って再雇用で今の職場に来たものの、立場も変わり周りの人も全く知らない人ばかり、それに仕事は本質的なところで似て非なるところもあり、少し違和感がありました。 北米駐在をやって日本に帰った連中が、「イヤー、日本はやりにくい。縦割りの組織で窮屈だし、何かを決めるのも調整でヘトヘトになるし、第一まともな理屈が通らない。それに官僚的、早くまたどこかに出たいですよ」、というのを聞いていたのですが、その理由がよ〜くわかったのがこの3年間でもありました。 ![]() そんな訳で退職のお別れ会へのお招きは、今の職場関連よりオハイオ駐在時代に関係の深かった人達がいる栃木地区、それにオハイオに行く前にいた本社時代に付き合いのあった方々から多くありました。 送別会・お別れの会は小は5〜6人、大は12〜20人くらいで、7月30日の退職日までに実に14回もやってもらいました それぞれの会でみんなの顔を見ていると、様々な思い出が甦ってきて、感無量でした。 いずれにせよ、こういう方達の協力・支援があって今まで会社で何とかやって来れたのだ、と心の底から思いました。 これ以外にも会っておきたい人はたくさんいたのですが、限られた日数の中では全部の方に会うことができず非常に残念でした。 退職の1週間前の所長との昼食会では36年間のお礼と、私のこれまでの経験からの感想・所見の一部を伝えておきました。所長は仕事以外で話をする事は今までなかったのですが、ざっくばらんに話をする雰囲気を作ってくれる人で、あっという間に会食は終わりました。 今は役員として会社の経営陣のメンバーに名前を連ねている所長、少々辛口のコメントも言わせてもらいました。 退職後に行う様々な手続きの説明を人事の担当者から2回に分けて聞き、必要な書類も全部提出しました。退職金・年金に係わる手続きは3年前に終わっているのですが、それでも健康保険、会社のOB会、その他提出する書類も幾つもありましたが全部終わりました。 7月30日、とうとう最後の日を迎えました。 管理職一同に対しての最後の挨拶の後、場所を変えて職場の皆さんの前で花束と記念品をもらい、事務所の前に予め駐車してあった自分の車に乗って皆の見送る中、会社を出ました。 さあ人生第2幕のスタートです。 |
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