12−11−14  懐かしい顔
11月になって、再びあちこちの取引先を訪れる事が多くなっています。先日は埼玉県行田市にある、K社の子会社でC社という従業員40名の小さな会社に行ってきました。C社は岐阜県関ヶ原市にあり私は初めて訪れるところです。

関が原の駅を降りると駅の周りは山に囲まれた田舎の風景が広がっています。どこが古戦場跡なんだろう、と思って眺めているとホームの案内掲示板に「この辺一帯は古戦場跡」、と書いてあります。
ナルホド、そういう事なのですね、付近の谷間、山、僅かな平地、全てが何らかの由緒を残す古戦場のようでした。

駅まではC社の社長さんであるKさんが迎えに来てくれており、Kさんの運転する車で工場に向かいました。工場に着いてまず説明を受け、早速工場の中を見せて頂く事にしました。
大きな設備の中で働いている人は班長さんを除き、全員が日系ブラジル人です。

日本人と全く同じ顔をしている人、混血らしい人、様々な人が働いており仕事をする態度がキビキビとしていています。
私もアメリカ・日本の様々な会社の製造現場を数多く見てきましたので、工場に入って10分もすればその会社がどういう会社なのか、そこで働く人はどうなのか等がピンとくるものがあります。

この会社は設備廻りの整理整頓が少し気になったのですが、作業員の動きが違います。我々部外者が来ているので緊張しているという事ではなさそうです。
工場見学を終えて事務所に戻りこの事を社長のKさんに話しました。

「そうなんです。日系ブラジル人達は本当によくやってくれます。一生懸命にやってくれます。」
「現場の作業の正確さ、不良に対する敏感さ、これらも日本人より上です。ズバリ、日本人は雇う気になりません。」


やっぱりそうか、、、実は私は同じような話をあちこちの部品会社で聞いているのです。
最後にこの社長さんが言った言葉が印象的でした。

「彼らは一生懸命にやってくれます。私はこの人達のために受注が減っても何か仕事を探し、会社にいてもらえるようにしているのですが、、、。でもそれもだんだん限界になってきました。不景気の波には逆らえません、、、。」

社長のKさんに何とか会社にいて欲しいと思わせる日系ブラジル人たち。もはや日本人はこういう工場で真面目にコツコツ働く国民ではなくなったのでしょうか。
先週は福知山にある取引先のB社を訪れました。この会社は我が社の製品における最重要部品の一つを生産しており、我が社とある会社との合弁で設立された会社です。

前日に福知山まで行き、駅の近くのホテルで一泊。
今回B社には私の会社から7名という大人数が訪問、実はその中の1名がオハイオ人であるDS君がいるのでした。
私はDS君を含む6名とは別のホテルに宿泊したので、みんなが泊まったホテルに当日の朝8時に行きました。

福知山の駅前はきれいな街で、出勤するサラリーマンとか学生が駅にパラパラと向かっています。「XXX通り」、というのが見つからないので、前から来た女子高校生の集団に聞きました。

「XXX通りってどの通り?今歩いている通りでいいのかな?」、その女子高校生は返事はせずキョロキョロ、そして
「あそこに書いてあるやんか!見えるやろ!」
これが返事でした。ま、今の高校生ってのはこんなもんなのですかね〜、、、。

Cホテルに行くとロビーで懐かしいDS君がコーヒーを飲んでいました。
「おはよう、Dさん!久し振りですね!!」
「SHINさん、おはようございます。元気そうですね!」
2年ぶりの再会です。DS君は全く変わっていません。違うのは今日はヒゲをきちんと剃ってあることくらいかな。

時間になったのでDS君の案内と通訳を兼ねた本社のKさんと供にタクシーに乗ってB社に向かいます。DS君とは積もる話があり、タクシーの中からずっと話が途切れません。
DS君は入社が1997年6月、つまり私がオハイオに行った翌年で、その後ずっと私のところで仕事をしていた優秀なエンジニアです。

「SHINさんはマネージャーとしていろいろと指導を受けて一番印象に残っているし、第一私が会社に入ってから13年間、ずっと一緒でしたからね。SHINさんの事は忘れる事はできません。」

ここまで言われると私も本当に嬉しくなってしまいました。DS君はどちらかというとクセのない性格でしたが時々言いたいことが分かり難い事があり、ちょっと苦労したな〜、、、とかDS君の顔を見て話をしていると、2年前までのオハイオ時代が鮮やかに甦ってきました。
やがてB社に到着、会社の玄関には私の会社から出向しているKさんが出迎えに来てくれていました。
用意された会議室に入ってM社長以下10名近くの方々と名刺交換のあとスケジュールの説明があり、さっそく本題に入りました。
工場はとにかくびっくりするくらいきれいで、徹底したゴミ・異物対策が行われています。我々も工場の中には防塵服、防塵スリッパ、マスク、ゴム手袋を着用をして入ります。

これだけいろいろな設備によって量産を行う大きな工場で0,1mm以下の異物でも見逃さないというのですから大変なものです。
工場の中を午前2時間、午後2時間細かい説明を受けながら見せてもらいましたが、私のような素人が見てもこれは創造を絶する世界だな、と思いました。
DS君はこれからこの領域も自分の仕事としてオハイオでやっていかなくてはならないので、とにかく熱心に質問を行っていました。
昼食は幕の内弁当を頂きましたがDS君には大量の各種サンドイッチが準備されており、DS君は恐縮。

昼食の後の雑談ではちょっと興味深い話がでました。
それは韓国メーカーのここ10年の躍進についてです。B社は電機業界、我々は輸送機器業界という事で異なるのですが、それぞれの業種における韓国メーカーの躍進は目覚ましいものがあります。

ではナゼここまで短期間で躍進できたのか?
ズバリ、”日本からの技術の流出による”、というのが双方の意見の一致するところでした。技術とは製品技術(製品の開発に関する技術)と生産技術(製品の生産に関する技術)の両方です。

これに関しては私も生々しい、信じられないような様々な話を山ほど聞いていますが、これらはウソでもなんでもない事実なのです。詳しく記せば一冊の本になるくらいの世界です。

ここまで日本の基幹産業のノウハウが流出してしまったのは誰の責任か?それぞれの企業にもあると思いますが、やはり国としての産業の育成(育成とは保護も含む)に関する政策が微弱であったというのも理由の一つなのでしょう。
そのノウハウ、実は今中国でものすごい勢いで流出中なのです。
中国は”国家戦略としてノウハウを盗んでいる”、と言った方が正確なのでしょう。

さて帰りの電車の中、福知山から京都までの1時間20分間、DS君とたっぷりと話をする時間がありました。 「SHINさん、是非オハイオに来たときは声をかけて下さい。みんなでお待ちしています。じゃ、さようなら。」
DS君はそう言って私と別れました。オハイオに帰ったらみんなに私の事を話してくれるのだろうな〜、、、。そう思うとオハイオ人達の顔が次々と頭の中に甦ってきました。DS君、元気でがんばれよ、、、。
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