12−04−07 花見散歩
今年の春は4月になっても気温が上がらず、最高気温が9℃とか10℃、最低気温が3℃、4℃という寒い日が続いています。
それでも各地で例年より1週間くらいの遅れで桜は少しずつ咲き始め、鈴鹿でも今週は通勤の途中で三分咲きくらいの桜を見れるようになってきました。

昨年は津まで桜を見に行きましたが、今年は自宅の近所の桜を見に行くことしました。

私が今住んでいるところは67年前つまり昭和20年8月15日まで旧海軍鈴鹿航空隊の飛行場だったところなのです。

飛行場の敷地は広大で終戦後それらの施設の一部は郵政省、旧電電公社と引き継がれ、現在は鈴鹿医療科学大学、国立鈴鹿高等専門学校、それ以外の滑走路地区の大半は住宅地になってしまいました。

桜は鈴鹿医療技術大学の付近は昔の面影を残しているという事を聞いていましたが、26年前に住んでいた時を含め、今まで一度も行った事がありませんでした。

これらは全て私の住んでいるマンションから2km以内、ブラブラと散歩をするのもよかろうと、花見がてらに近所の散策をしてみました。
鈴鹿医療科学大学正門前

この桜並木はズバリ、旧鈴鹿海軍航空隊の司令部庁舎に続く道筋にあります。
このアングルは昔の写真にも出てきます。建物は変わっていますが、戦後電電公社はここを”電電公社鈴鹿学園”として教育訓練施設に使っていました。

私が鈴鹿に住み始めた35年前は、ここに勤務する電電公社職員の官舎があちこちにありました。
(訓練、教育を受ける職員は寮生活だった。)

この桜並木は長くはありませんが、何となく歴史を感じます。
鈴鹿医療科学大学正門横

”碧空の碑”、昭和51年11月、鈴鹿海軍航空隊を偲ぶ会、隊員遺族一同、関係者一同による建立となっていました。

昭和19年に予科練の多くの若者が鈴鹿の地に来て訓練を受けたそうです。
航空隊は訓練部隊の他に実戦部隊、それに各種のテストを行う部隊など様々だったようです。

当時から近鉄白子駅はありましたので、みんなこの駅を降りて航空隊に来たのでしょうか。
鈴鹿医療科学大学正門横(2)

実は今回の散歩で旧海軍当時から残っている施設、建物等で実際に目にしたのは、これとマンホールの蓋だけでした。

この建物(?)はよくわかりませんが、恐らく隊に用事があって来た人をを待たせておく”商人溜まり”と言われた建物だと思われます。

何かの本で、隊に来た民間会社のエライさんが衛兵から、「そこの商人溜まりに入ってろ!」、と言われて牢屋のようなところに押し込まれ憤慨した、というのを読んだことがあります。
国立鈴鹿高等専門学校(1)

鈴鹿医療科学大学内にも桜は何本もありましたが、樹齢から察すると、全部旧海軍時代からのものばかりでした。

大学の裏門を抜けると鈴鹿高専があります。これらも全部飛行場の跡地に建ったものです。

守衛所にいたガードマンに、「中に入って中に入っていいですか?」、と聞くと「どうぞ、どうぞ」、という返事でしたので、中にブラリ入ってみました。
国立鈴鹿高等専門学校(2)

学校の中にはたくさんの桜が植えられており、七分咲きくらいでしょうか、きれいに咲いています。

土曜日なので校内には誰もおりません。
朝の10時前、気温は上がらず風も少しあり、はっきり言って寒い。
殆ど真冬と同じ気候です。

埼玉にいた頃、夜桜の下で一杯やろうと計画したのですが、あまりに寒くて中止、近所の居酒屋で一杯やったというのを思い出してしまいました。
国立鈴鹿高等専門学校(3)

建物をぐるっと回って南の方に来ると広いグランドで学生が野球の練習をしていました。
国立高専ですからいい選手を集められないので強いチームではないでしょうが(強かったらゴメン)、かなり気合いが入っています。

練習を小高くなっているところから眺めていると横を通っていく選手達はみんな私に向かって、「おはようございます!!」、と元気よく挨拶をしていきます。

気持ちのいい学生達です。
国立鈴鹿高等専門学校(4)

これは何か?
実は私が前に住んでいた家、今は倉庫代わりで使っていますが、学校の西門(普段は閉まっている)から100mくらいのところにあるのです。
2階の私の書斎からは学校の2階の教室がよく見え、授業風景を双眼鏡で見ていました。

で、西門の横から家の方を見たのですが、屋根の一部しか見えませんでした。
校舎の2階に上がれば見えるのでしょうけど、、、
残念!
国立鈴鹿高等専門学校(5)

更に歩いていくと鋭い気合いが聞こえてきました。
ン?剣道をやってるな。という事で道場へ。

練習は高専の学生だけではなく、どこかの高校生も来てやっているようです。

入り口で練習を見ていると、1分もしないうちに防具を付けたカワイイ女子部員が湯飲みに入ったお茶を持ってきて、「どうぞ、、、」。

ここの部員、よく教育・指導されています。
 
学校の前の通り

学校の中にはあちこちに桜が植えられており、これらを見ながらブラブラと校内を見学させてもらいました。
広大な旧鈴鹿海軍航空隊の跡地に建つ”鈴鹿高専”、余裕を持った敷地ときれいに整備された校内が印象的でした。

日本の産業を支える技術者を育てる学校、この日に見た野球部の生徒、剣道部の生徒達は利発そうな顔をしているのが印象的でした。
ああ鈴鹿海軍航空隊

上野写真の右側の風景です。
ここには昨年の2月まで格納庫他の昔の施設が残されていたのですが、全て取り壊し・撤去されたのでした。
高専の守衛のガードマンが言ってました。
「保存会とかが何とか残して欲しいと運動をやったのですが、ダメでした、、、。」

70年前には先ほど見た学生と同じくらいの年令の若者が訓練を受けていたのですね。

つわものどもが夢のあと、、、ふと芭蕉の句を思い出してしまいした。
東旭ヶ丘3丁目(1)

上の写真から歩いて3分で私が住むマンションのある東旭が丘3丁目です。
この大きな風景の変化には、何だか不思議な気分になってしまいます。

私の住むマンションも200mくらい先に見えます。
これらの住宅も35年前は何もありませんでした。
右側の住宅は大きな紡績工場がありました。

随分変わりました。
東旭ヶ丘3丁目(2)

上の風景から右に90°首を回すと同じような住宅の風景が続きます。

この道路の突き当たりが今は空き家にしてある、以前に住んでいた家があるところです。

同じく左側は紡績工場の跡地です。この紡績工場には中学を出た多くの女工さんが働いており、夜は会社のバスに乗って夜間高校に行く姿が見られました。

鈴鹿だけではなく日本中どこに行っても、もう見れない風景だと思います。

桜見物でブラブラと歩いて約1時間半、新しい散歩コースを発見した、って感じになりました。

この日の散歩で鈴鹿の歴史を少し感じました。
昭和初期までは農業と漁業だけのところ、その後海軍航空隊ができて、同時に海軍工廠もできました。航空隊は実験航空隊(新機種、搭載新兵器のテスト部隊)もあったので三菱の工場もあったのを、ある方から教えてもらいました。

そして終戦、広大な土地を利用して電電公社の教育・訓練施設ができ、高等専門学校もできた、その前にたくさんの紡績会社が鈴鹿にはできました。一時期鈴鹿は紡績の町でもありました。
紡績が廃れると次に鈴鹿はバイクと車を製造する町になり、爆発的に発展しました。

そのバイクと車造りですが、すでに鈴鹿ではバイクは作っておおりません。と言うより、日本ではもうバイクは作っていないと考えて差し支えありません。
車もその製造の中身は大きく変わりました。車つくりはこれから先も今の状態が維持できるのでしょうか?
実は日本の製造業は6重苦で青息吐息なのです。

1.円高
2.高い法人税
3.自由貿易協定への対応遅れ
4.硬直的な労働規制(製造業への派遣禁止など)
5.非現実的とも言える環境規制(二酸化炭素を2020年までに25%削減)
6.震災とそれに伴う電力不足問題


注目すべきは上の2から6は政治の問題である点です。

方向性としては日本での車作りは非常に限られた規模になっていくでしょう。
では車産業が廃れていくとなると、次は何にバトンタッチすればいいのでしょうか、、、それは、、、

ありません。
どう考えてもないのです。バトンタッチをする先がないという事は、結果としてどうなるか。
答えはみんな知っていますが、誰も言いません。不思議です。
ではどうすればいいか?答えは2つあってこのどちらかだと思うのですが、これも誰も言いません。不思議です。

inserted by FC2 system