12−02−02 再度スペやんのこと
今でも時々オハイオ人からメールがきます。現在私が勤務する工場は北米との関係があまりなく(発展途上国との関係は多い)、オハイオ人からのメールの内容は元気か?どうしてる?というような近況説明の要求のものばかりです。
メールをもらう度に、オハイオ人達の事を懐かしく思い出します。

そんな中、オハイオの元の職場にちょっとした問い合わせをする必要がありました。問い合わせ先は我が愛すべきオハイオ人のスペやんことティム・スペンサー。
彼にメールを書き始めたのですが、止めました。
理由は噂によると、スペやんはいろいろとトラブルがあって、ひょっとしたら最近会社に来ていないかも、いや、会社を辞めたかも知れないと思ったからです。

それで駐在のSさんにメールを出して、もしスペやんがいたら彼にに聞いて欲しい、いなければ他の人に聞いて欲しい旨のメールを出しました。
Sさんからは翌日直ちにメールの返信がありました。スペやんは元気に会社に来ているようでした。
Sさんによると、「SHINからの依頼だが、、、」と言ったら直ぐにやってくれたとの事でした。

そこで私はスペやんに早速メールを出しました。「親愛なるスペやんへ、元気ですか、、、、。」

スペやんはオハイオの職場でもかなり有名というか、得意な存在でした。
オハイオの会社は設立当初、地元のオハイオ人から採用を開始しました。その後10年、15年か経ち会社はどんどん大きくなって最終的には15000人もの会社になりました。

5000人くらいを越えた頃から製造部門以外の技術部門などの間接部門の強化が急速に行われました。アメリカでは技術者は技術者としての教育を受けた物を採用するというのが一般的で、これは大卒を意味するのでした。
こうやって大量の大卒社員を採用して、技術部門は大きく成長しました。

工場拡大期に採用した地元の衆の多くは高卒で、こういう中にも技術者として優秀なオハイオ人はいたので、そういう連中も立派に仕事をこなしていました。私が愛するスペやんは、この地元採用の社員のひとりなのでした。
スペやんの事はずっと前のオハイオ日記に書いた記憶があります。(実はどこに書いたのか、自分でも探せない)
でも再度ここに書きます。
スペやんは白人です。先祖はイギリスからの移民だ、と他のオハイオ人から聞いた事がありました。

風貌は一回見たら忘れる事ができません。髪の毛はぼうぼう、髭もぼうぼう、のそのそ歩きます。歯は他の多くのオハイオ人と違って矯正していません。
会社のユニフォームはものすごく汚れていていつ洗濯したのかわからないほどです。知らない人だったら半径3m以内には近寄りたいとは思いません。

でもスペやんは絵がうまく、きちんとした文章も書けます。
駐在になった頃、スペやんに日本の大学共通一次試験の一部をやってもらった事がありました。確か前置詞、接続詞の問題でした。
前置詞の使い方なんかオハイオ人でも結構デタラメなのですが、スペやんは満点でした。

スペやんに引越しを手伝ってもらった事があります。スペやんは馬を4頭くらい入れて運ぶ巨大な車で来ました。中は藁だらけでした。

スペやんにやはり何かを頼んだ私の先輩がいました。先輩はお礼にスペやんにウイスキーを1本あげました。
それをもらってスペやんは家に帰るまでに車の中で全部飲んでしまいました。スペやんは当時スプリングフィールドというところに住んでいました。その先輩の家から車で45分くらいのところです。

スペやんはやはりただ者ではありませんでした。
私のカミさんと娘もスペやんを一度見た事があります。スペやんの風貌と服装を見てかなりショックだったようです。
スペやんはある日結婚をしました。スペやんは既に40才を幾つも過ぎていました。なかなかべっぴんさんの奥さんでした。奥さんを見たとき、私は一瞬信じられませんでした。
ある日スペやんは会社から家に帰るとき、会社の駐車場の出口で大事故に遭いました。瀕死の重傷を負い、ヘリコプターで病院に担ぎ込まれ、一命を取りとめました。

半年後職場に戻ってきたスペやんは、全てを悟った仙人のような立派な顔になっていました。やはり死線を彷徨うと人間は変るもんだ、私は心からそう思いました。

ところが仙人スペやんは奥さんと喧嘩をして、家を追い出されることしばしばと言う状態になりました。
そこで仙人スペやんは仙人である事を利用して28才(!)の彼女を作り、そこの家から通勤をするようになりました。
そして仙人としてする事をきちんとやったせいで、やがて赤ん坊が生まれました。

これにはさすがのオハイオ人達もみんな腰を抜かしました。職場では大々的な話題になり、スペやんの顔と赤ん坊の写真までボードに貼られました。

こうしてスペやんは仙人スペやんから、只のスペやんに戻ってしまいました。
でもスペやんは嬉しそうでした。

スペやんは全米に散らばる車の集配施設に行って仕事をするという特殊な任務を持っていました。ですから主要な都市、港、その他全米の事をよく知っていました。

私が駐在当初の頃、あちこちに旅行する時はちゃんと安全な場所を教えてくれ、私はその安全エリアのホテルに泊まって観光旅行をやりました。スペやんは私の生活コンサルタントの一人でもありました。

スペやんと初めて会ったのは今から約25年前、私が本社にいた時にオハイオに出張したときでした。その頃スペやんはまだ30才くらいだったと思います。でも既に容貌と服装は特筆すべきものがありました。

さて私がオハイオから日本に帰った後、スペやんは大変な事があったようでした。かなりアブナイというか、ヤバイ事があったようです。ちょっとここでは書けません。

私は14年間一度もスペやんを、 「Tim」 と呼んだことはありませんでした。最初から最後まで、「スペやん」でした。
彼は私が呼ぶと日本語で、「はい」、又は、「Yes, Brother.」と応えました。

絶対に忘れる事のできないオハイオ人のひとりです。。

PS:私のメールにスペやんから返事はすぐに来ました。
”・・・・It was good to hear from you. My little son just turned three years old. He keeps me very busy, and ・・・”
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