12−01−24 作業者YZさん
日本に帰ってきて定年を迎えたものの、会社に残り仕事を続けています。世間で言うところの再雇用というやつで、給料は激減、当初はあまりの落差に愕然としました。
しかし自分のペースで自分の考え方で仕事ができるのであまりストレスは溜まらず、まあこんなもんかな?という日々を過ごすことができています。

私の仕事上の役割はいろいろあり、その中の一つが人材育成です。人材育成は非常に手間のかかる割に、効果がすぐに見えない仕事です。
どこの会社、組織でも人材を育てるというのは重要であるという認識のもと、予算・時間・人を投入しています。会社、組織で育てるべき人材は上は、社長候補から下は新入社員の戦力化といったものまで様々です。

私の場合の人材育成とは、私の業務領域における海外拠点のミドルマネージメントを育てることです。海外で仕事ができる人材育成の要件は次の5つかな〜、と常々思っています。

1.自分の専門分野の仕事ができること、関連する分野の知識が十分にあること
2.仕事の本質が理解できていること、将来のビジョンが描けること
3.説得力があること(言葉で、そして資料・文書が作れて使える)、他の人の話・言いたいことが理解できること
4.その国の人、周りにいる人を理解しようとする、その国を知る、そしてその国と人を好きになれること
5.日本人として日本の事がわかること、歴史・文化を語れること、日本と日本人に誇りがもてること

1.2.3.は何十年もかけて詳細なプログラムが作られていますし、3.をやるためには英語とかの読み書き、会話能力も必要になります。
海外で特に重要である論理的な思考パターンも、やはり1.2.3.で養うしかありません。

先日栃木に出張した時に、ある部長さんが人材育成について意見を聞きたい、というので少しだけ私の考えをお話をしました。やはりこの方も1と2に重点を絞っており、3もかなり考慮されたプログラムを考えているようでした。
その日の業務を終え、宇都宮のホテルに帰る途中少し時間があったので駅の本屋に立ち寄ってみました。
ここで雑誌の立ち読みをしていると、日本の陸上自衛隊のイラクでのPKO活動についての記事が目に入ったので読んでみました。

PKOとは軍事紛争国(地域)に、国連加盟国が国連の指名した国の指揮官の下で加盟各国の軍隊、警察、その他の組織が平和維持のための様々な活動を行うものです。
ちなみにPKOにはアメリカ軍は参加をしません。アメリカ軍はアメリカ軍以外の指揮官の指揮を受けて行動はしないという鉄則があり、PKOの指揮官はアメリカ軍以外の将校になるので参加はしないということのようです。

それはともかく、この雑誌には日本の自衛隊がイラクでどういうやり方でPKO活動をやったか、他国軍とはどこが違ったのか、などが書いてありました。
PKO活動ではいろいろな活動を行うために多くの現地人を雇って、"作業"をやらせます。自衛隊は工兵部隊を派遣しており、やはり多くのイラク現地人を雇い入れて活動をやったようです。

自衛隊と他国軍の大きな違いは、これらの雇い入れたイラク人に対する接し方にあった、とありました。
簡単に言うと自衛隊はイラク人を仲間として扱い、行動をした。これに対し他国軍はイラク人を監督する使用者という立場で行動をした、とありました。

他国軍はイラク人に"命じて"やらせた仕事”が時間内でできなかった場合、それはできなかったイラク人のせいで、監督者たるその国の兵士はイラク人を厳しく追及したそうです。
これに対して自衛隊はイラク人に命じた作業が遅れそうになった時、イラク人達と一緒にその仕事ができるまで夜遅くなろうとも仲間としてやったそうです。

これを読んでさっと思い出された事がありました。それはオハイオにいた時にメキシコ出張して、そこの工場で見た事でした。
その頃メキシコ工場はメキシコ市場向けの製品以外にアメリカへの輸出、更に中南米への輸出工場として能力を拡充中の頃でした。
私はある両機の業務支援に関する調整で、メキシコ工場に出張をしていました。
メキシコ工場は歴史も浅く、従って従業員も新人ばかりで生産量の確保、品質の維持に苦労をしていました。
そのような中、オハイオ工場からかなりの人数のオハイオ人が、いろいろな分野の支援・指導でメキシコに出張していました。

私は製造ラインを見せてもらう事になりました。工程をずっと見て回って最終工程付近に行った時の事でした。
その工程は割と熟練を要する工程で、横には白人のオハイオ人が仁王立ちになって腕を組み、盛んにメキシコ人の作業者に指示を出していました。

メキシコ人の作業者達は、そのオハイオ人の顔をチラチラ身ながら作業をしています。なかなかうまくいきません。
オハイオ人は仁王立ちのまま、大声で怒鳴るように指示を出します。やはりダメです。

メキシコ人達は額に汗を流しながら一生懸命に作業をしますが遅れてしまうので、メキシコ人の班長らしき人もパニックになっていました。

それをじっと見ていたメキシコ工場の品質部門の責任者である私の大先輩のYZさん、この人が作業者の中に入って一緒に作業をやり始めたのです。YZさんはずばり言ってエライ人です。

製造ラインはあるスピードで動いているので、一定時間内に一つの作業は終わらなくてはなりません。YZさんは数にして数台分の作業、つまり時間にして数分間、メキシコ人の作業者の中に入って作業を始めたのです。

私も、オハイオ人もびっくりしました。
メキシコ人達は真剣にYZさんのやり方をマネて、作業を製造ラインのスピード内で何とかできるようになりました。

メキシコ人の班長が大きな声で叫びました。恐らく、「やった〜!!」、というような意味だったのでしょう。
YZさんはオハイオ人の横に行って、何かを言いました。オハイオ人は顔を真っ赤にして口を尖らせていました。
後でYZさんに聞いたところ、「言うだけではなく、やって見せた方がいいよ。私でもできるのだから君なら簡単だろ?」

YZさんはこの工程の作業なんてやった事はなかったのですが、どういう出来映えでなくてはならないかは誰よりも理解をしていたのでした。
そして日本の工場で日本人がやる作業を徹底的に観察してあった、と夜に食事をした時に言ってくれました。
そう言えばメキシコ人に指導をしていた手つきは決して慣れたものではなく、むしろ試行錯誤しながらやっているという感じで、後で話を聞いて納得しました。。
仁王立ちになって腕を組んでどなるオハイオ人(このオハイオ人は現場の係長クラスでした)、作業者と一緒に悩んでやろうとした日本人のエライさん、日本人は仲間の関係で、オハイオ人は上から目線の監督者の関係でした。

私は人材育成についてのヒントはYZさんの行動に全ての答えがあると思っています。(これを”作業レベル”の指導という切り口だけで捉えてはいけない。)
YZさんは多くの現場の人にYZ、YZと名前を知られるようになり、その声がメキシコ人のマネージメントの耳に入り、YZさんはそれらのメキシコ人マネージメントと自然といい人間関係を築いたようです。
そしてそれらのメキシコ人マネージャを手足に使って立派な成果を残されました。

工場ができた当初、オハイオ人達は、「車に乗った事のもないメキシコ人に、車造りができるわけがない」、と言っていました。(メキシコでは現場の作業員レベルでは車を持つことは難しい)
日本海軍のゼロ戦も、アメリカ海軍のグラマンF6Fヘルキャットも、F4ファントムも、これを設計して作った人達は誰一人として、これに乗って飛んだことはないんだよ、、、これが私がオハイオ人に繰り出したカウンターパンチでした。

その後メキシコ工場はオハイオ工場を超える、素晴らしい工場になったのでした。

私は人材育成について何か意見を求められた時、YZさんの話をする事があります。(相手の立場によってはもちろん他の話をする事もあります。)
考え方も教育も肌の色も何もかも違う人達の中で仕事をしていかなくてはならない我々日本人。

メキシコ工場の生産ラインの横に仁王立ちになっていたオハイオ人と、ニコニコしながらメキシコ人の中に入って作業をやったYZさん。
あれは周りにいたメキシコ人、オハイオ人、そして日本人である私の全ての人に対する、YZさんからの教育であったのかも知れません。

私が忘れられない出来事のひとつです。
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