11−07−31 ある会合
先週は取引先5社との大きな会合がありました。この会合はあるコンポーネントの同業5社が集まって定期的に行われているもので、今回の幹事会社はA社でした。
先ず福島県の郡山といわき市の中間にあるA社の工場へ行って製造工程を見せてもらうと同時に、A社が取り組んでいる様々な活動について詳細な説明を受けました。

東北の田舎にあるこの工場、現場で作業をやっている人達の大半は女性で監督者にも女性が多くいて、私の勤務する工場とは違った雰囲気で、皆さんの真面目勤務ぶりは素晴らしいと思いました。
この会社も北米・ヨーロッパ・東南アジア・中国に工場を持っており、それらの海外工場を技術的に支えるのもこの工場の役割であると説明がありました。

日本の製造業の特色は現場と技術スタッフ、それに管理監督者が一体となって製品の生産を行う点にあると常々思っています。
アメリカの会社のように管理者は現場には殆ど足を運ぶこともなく、技術スタッフは上から目線で現場に指示を出す、という事はありません。

決められた事をやるだけでなく、自らが考えて行動をする、これが現場の一作業者にまで浸透しているというのが日本の特徴です。
説明をしてくれたのはいずれも現場の人で、実にきちんとした説明をしてくれました。

最近この素晴らしい日本の製造業が少しずつ変化を始めています。製造業そのものが日本からどんどん海外に出ていこうとしています。
そして多くの日本人はこの事に危機感を感じていないように見受けます。

あと10年したら日本の産業の屋台骨を支えている製造業はどうなるのでしょうか。
今回の会合で集まった5社というのは、いわゆる一般的に言われる競合会社同士です。
この5社はいずれも私の会社と取引をしており、この5社が互いに切磋琢磨してレベルアップをはかる事を目的にこのような会合を開いているのです。

参加者は私の会社側からは3名、5社は合わせて約50名というかなりの人数です。1日目はA社の工場で行われ、午後遅くなってから千葉県成田市に移動、ここのホテルの会議室を借りて翌日丸1日、そして翌々日の半日を使って各社の発表、意見交換が行われました。

競合5社が集まって何を発表、討論したのか?ズバリ、各社の製品製造に関する失敗事例のプレゼンなのです。
製品の開発、製造、販売で競合する会社から部長クラス、課長クラスが集まって、それぞれが、「私の会社ではこんな失敗をやってこのように対策を行いました。」、という内容を1時間以上をかけて説明をしてお互いが意見を述べ合います。

普通に考えると競合会社が集まってのこんな会合・発表会なんてあり得ないのですが、でもこれがあるのです。

私はこの会合には初参加でしたが"切磋琢磨"という単純な言葉では表せない、会社の枠を超えた一体感を強烈に感じました。

失敗の対策とは突き詰めれば結局は"ノウ・ハウ"であり、これを競合他社と共有化する、などというのはアメリカの会社同士でできるだろうか、中国の会社同士でできるだろうか、どう考えても不可能だと思います。

この会合を始めたのが私の会社のOTさん、彼は私がオハイオにいた時に、ある日米合同のプロジェクトのリーダーをやっており、日本から出張で何度もオハイオに来ていたのでよく知っている人です。
この会合はそのプロジェクトの延長線上でやっているのでした。

「OTさん、よくここまでみんなを引っ張って、まとめましたね。」、私はOTさんに率直に感想を述べると、「イエ、最初はみんな全くバラバラで、やはり失敗は語ってくれませんでした。」、と言って経緯をいろいろと説明してくれました。
私はOTさんのリーダーシップに感心しました。
5社はそれぞれ売り上金額が数千億円規模の、いずれも名前の知られた会社ばかりです。

各社の製品は機能・性能・デザイン、コスト、それに品質で激しく競っており、それを達成するプロセスを一部ではあるにせよ競合他社間で共有するという事はどういう事なのか、ナゼ日本では可能なのか、そればかりを一生懸命に考えていました。

しかし2日半で5社合わせて700枚程度のパワーポイントのプレゼンを聞き、それぞれに対しコメントを出すというのは、正直かなり疲れました。
参加者の50名は日本国内だけではなく、中国・アメリカなどの海外からも何名もみえており、中国からは日本語の上手な現地人スタッフが来ておりました。
集まった各社の方々の中で、かつて私が名刺交換などをした顔見知りの方は7〜8名程度だったと思います。

その中で一番びっくりしたのはP社のMKさんです。MKさんはオハイオで私の家の3軒隣りに2002年から2005年くらいまで住んでいた方です。
小学校低学年の小さな女の子どもがいて、私がフロントヤードで花壇の手入れをしていると奥さんがこの子の手を引いてやってきて、「きれいですね。」、といつも褒めてくれました。

1日目の会合が終わって夜の懇親会、A社の司会の方に急に乾杯の音頭を頼まれ、慌てて短いスピーチをやりました。
早速MKさんがあいさつに見え、思い出話に花が咲きました。
MKさんの隣にはインド人の家族が住んでおり、いろいろな生活面で随分お世話になったと言っていました。このインド人の家族は私が住み始めた時からおり、私が帰る時もいましたら、一番の長老(?)だったと思います。

芝生の手入れ、日常生活、いろいろと親切にしてもらったそうです。私はMKさんが帰国した後の5年間のコロンバスの変化についていろいろと話をしてあげました。
MKさんは3年間という短い期間だったのですが、やはり強烈な印象を持って日本に帰ったという事でした。

オハイオの家の3軒隣の住人に、私がたまたま参加した会合で会うなんて、本当に世間は狭いものです。
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