11−04−20 想定外
日本は品質の高い工業製品の設計、生産の技術は世界一と言われてきました。(まだ過去形ではありません。)
日本がナゼ世界一になったかというと様々な理由が考えられますが、日本人の気質と文化、そして教育が均質である(あった、と過去形で言うべきかも)というところが大きいと常々思っています。

さてこうやって大量生産される工業製品は不良がなくて当たり前という考え方が定着しており、実際にそういう製品が作られます。
ところが人間のやる事、不良品をどうしても作ってしまいます。
大量生産の工業製品は細心の注意を払って知恵を出し尽くしても、時として意図しない不良品を作ってしまいます。

不良がなくて当たり前の組織、人の集団が不良を作ってしまうと大罪で、それを作った張本人は極悪非道・獄門さらし首にされます。そしてその原因を徹底的に究明し、対策がとられて再び製品の生産が始まります。
不良を作った人・組織はいつまでも極悪人のレッテルを剥がすことができません。

では日本以外の国、私の住んでいたアメリカでは工業製品の品質についてどういう考え方、思想を持っているか。
ひとくくりにして言うのは非常に危険ではあるのですが、敢えて言うなら製品を設計して、そして生産すればある一定の確率で不良品は出る、というのを最初から否定しない、という言い方ができるようです。

ようです、というのは「不良があってもいい。」、とはアメリカ人もはっきり言わないので、こうなります。
しかしアメリカ人の行動、そしおてアメリカ人がつくる組織・仕組みそれによって成り立っている社会を見ていると、非常に強くこれを感じます。。

不良はなくて当たり前、あってはいけないもの、という考え方と不良はあって当たり前、あっても仕方ない、という考え方・思想の違いは仕組み・組織・行動に決定的な大きな違いを作ります。

アメリカ人でも物を買ってそれが不良だったらやはり困ります。
買った電気製品が動かない、洋服のファスナーの動きがおかしい、子どものオモチャを買ったら必要な部品が全部入っていない、でもアメリカ人は普通は日本人のようにあまり怒りません。仕方がない、と思うようです。
日本ではこういう事が起きると、何だ!これは!こんなもの売りやがって!、となります。

でもその先がアメリカと日本では大きく違います。アメリカは不良がある、というのを作る側も買う側も認めているので、不良品がお客様の手に渡った場合、それを速やかに良品に交換したり修理をするしっかりとした仕組みを作ります。
そして客がこれは不良品ではないか、と思ったらあまりつべこべ言わずに新品と交換したり、これは客が自分で壊したのじゃないかな〜、と思われる故障でも大らかに無料で修理します。

そんな事していたら余計な手間がかかるし、第一利益に影響するじゃないか、と思いますがそういう費用はちゃんと最初から製品の価格に入れてありますから、心配は無用です。
そういう費用の計上も不良があるのは普通の事ですから、堂々と行われます。

日本では不良はあってはならい、無いのが当たり前ですから、「これ壊れた」、って持っていくと大変な騒ぎになります。あってはならない事が起きたのですから、文句を言っている客もその対応をしているお店側も、目をつり上げて大いに慌てます。

アメリカは不良品をお客に売ってしまう事を最初から前提にしているので、お客がクレームをつけたらそれをきちんと処理をする仕組みを堂々と、かつかなりしっかりと作ります。
一方日本はクレーム処理はあくまで例外的な事なので、コソコソと隠れて処理をすべき事なので、何となくマイナスイメージの仕組みになります。

そうです、アメリカは最初から問題は起こるもの、不可避なものというのが前提で成り立っている社会と思った方が正しいと私は感じています。
製品は壊れるものから始まって、国レベルでの国際紛争、戦争は起きるものまで、そういう事態を異常、又は例外として扱うのではなく普通に起きる事なので、それの対応は普通に考えておくべきもの、という事になっていると考える方が自然です。

アメリカで生活していてこれに気が付いた瞬間、今まではあまり気にしていなかった事が見えてくるようになりました。例えば問題・事故などを起こしても不可抗力である事が照明された場合はアメリカでは罪はかなり軽くなります。
これも人は問題を起こすという事をある意味で認めているからではないか、と思われます。

要するに仕方のない事に関してはあまり追求をしない、という事になります。
不可抗力の証明と審議・審査は非常に厳しいのは当然ですが。
逆に故意、確信的な場合は容赦なく罰します。でき心でしたとか、この人は更正できそうとか、そういう議論はあまり起きません。

工業製品の生産現場でも不良を作るのは「仕方がない」事なので、作った不良を出荷前に排除するために検査を厳しくします。検査でどんどん不良品を排除しますが、肝心の加工とか組み立ての改善にはあまり熱心ではありません。
検査と排除した不良品の修理は非常に熱心にやります。

検査も抜け漏れがあるのは「仕方がない」事なので、それを売ったあとの修理とか製品を丸ごと交換とかの仕組みをしっかりと作ります。
これもうまくいかない場合があるのは「仕方のない」、事なので訴えられても困らないように、予め会社には腕利きの弁護士を雇っておきます。

弁護士もヘマをやるのは、「仕方のない」、事なので経営者は訴えられて破産をしないように保険に入っておきます。
という具合に社会も会社も国も何か問題があるのが当たり前なので、それに対処する事を常に考えて仕組み・組織を作ります。

そうです、リスク管理の基本は問題は起きる、の認識がスタートポイントなのです。

北朝鮮が長距離ミサイルを開発し、日本列島を飛び越えて太平洋に打ち込まれた事がありました。
これについて北朝鮮は核弾頭を開発中だし、既に細菌兵器は持っておりこれが日本のどこかに打ちこまれたらどうなるか、という事で随分騒がれた事がありました。

でも政府は、「あれは攻撃用のミサイルではない、気象衛星打ち上げ用のロケットなので、我が国には何の驚異もない。従って何も騒ぐ必要はない。」、という北朝鮮のコメントをそのまま使いました。
マスコミも気象衛星である事を、専門家という胡散臭い連中を引っ張り出して一生懸命に説明していました。

つまり自らが勝手に脅威ではない定義を作り、それを前提に政治的な判断をするという方法を取りました。これにはさすがにあちこちから異論が噴出し、しばらく経ってから政府は見解を訂正したのでした。
その事態はリスクとして定義をしない、従ってリスクではないから対応は行われない、という理屈です。

街頭インタビューなどで、「XXXの事態になったら貴方はどうしますか?」、という質問をすると必ず何人かは、「そういう事態になって欲しくない、なるべきではない。」、という返事をして質問に答えない人がいます。

一般の人であればそういう思考パターンでもあまり害はないのですが、日本は政治家でもこういう答え方をして思考停止状態になってしまう人がいます。

「そういう事態になって欲しくない、なるべきではない。」、というのが実際に起きると、「想定外。」、という便利な言葉を使い、対応ができなくても仕方がないという事にするようですね、最近は。

以上、オハイオ日記には実にふさわしくない内容ですが、少々気になったものですから。

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