11−03−20 我が故郷の散歩
先週の日曜日、ちょっと用事があった帰り、時間があったので津駅で下車、津の町を散歩してみました。
津は私が育ったところで3才から18才までの15年間を過ごしたところです。

津は昔からあまり特色のない市と言われております。
教科書に出てくるような何か歴史的なものがあるか、由緒ある物とか場所があるか、有名・著名な産業があるか、うまい食い物があるか、べっぴんさんを一杯輩出しているか等々、いろいろな角度で津を眺めてみるのですが、答えは積極的なノーが半分、消極的なノーが半分になります。

津は三重県の県庁の所在地であり、英語で言うと'The Capital City of Mie Prefecture'という、何となく重みのあるところになりますが、只の地方都市です。

昔は津藩38万石の土地でこれを築いたのは藤堂高虎という人だそうですが、この人は三重県(伊勢の国)の出身ではありません。
この藤堂高虎、実は私は昔からあまり親しみを感じないイメージがありました。
理由は中学校のある先生の解説による影響だと思っています。その先生は藤堂高虎の事をいろいろと言っていましたが、要約すると次のようになります。

「藤堂高虎は豊臣方の戦国大名の一人であったが、豊臣家が没落するのを見て、急遽徳川方に
”寝返り”、関が原の合戦に臨んだ。いろいろと'うまく”立ち回り”結局は外様大名でありながら、伊勢という江戸参勤交代には非常に便利な領地を与えられた。」

確かこういう話を何度も聞かされ、人間の多様性を理解できる年令でもなく、「藤堂高虎とは要領のいい、抜け目のない武将、何となく尊敬の対象にはしにくいタイプ。」、と映り、結局はそれがずっと今でも心の隅っこに残っていたのでした。
関が原の合戦を東軍の勝利に導いた小早川秀秋と同じような人物ではないかという印象もあったりしました。
ただ戦国時代はそういう生き方をして失敗をしなかった者が生き残った訳で千石武将とは基本的に藤堂高虎と大同小異ですが、その後そういう生き方をしなかった多くの武将も存在する事も知りました。

また藤堂高虎は世渡り上手(語弊のある言葉ではありますが)なだけではなく、戦国武将としての能力もずば抜けていたというのも知りました。
この件私の単純な知識不足などから来ている誤認、間違いだらけであるのは承知です。

でも、藤堂高虎の生き方って会社の中を見ていると
”今のサラリーマンの標準的な行動様式”でもありますから、藤堂高虎の処世術は時代に先駆けていた、と言えるかもしれませんね。(違うか〜、、、)

その津の町の一部をブラリと歩いてみました。。
護国神社−1

津駅から歩いて3分です。国のために命を捧げた三重県人を祀る神社です。
人影は殆どありませんでした。

先の大戦で多くの郷土出身の兵士が戦没しています。記念碑を読むと歩兵百五十一連隊4000名の戦死とありますから、文字通り全滅している事がわかります。
何名の方が生還されたのでしょうか。。
護国神社−2

日本人が一体どれだけ祖国の鬼になったかのか、この碑をみると愕然とします。
212万人とあります。

半島・大陸で約60万人、フィリピンで50万人、中部中部・南部太平洋で50万人、この3つの地域で全体の約75%です。
殆どが20才から30才くらいの若者だったと思います。
合掌。
偕楽公園−1

ここはちょっとした高台になっている公園で昔から津の花見の場所として有名です。
元は津藩主の別荘として作られたもので、明治になって一般の人にも開放した場所だそうです。

そこそこ整備はされていますが、花見客相手の売店がそんなに広くない公園内にひしめいているのが興ざめです。
偕楽公園−2

この公園の奥には見当山という、山と呼ぶより丘と呼ぶべき丘陵地帯があります。
ここには中学生だったかの時に遠足で来た記憶があります。

津市の南にあった中学校からここまで4kmちょっとくらいでしょうか、当時は何百人の生徒がお弁当しょってゾロゾロ歩いて来たのです。
今はこういう遠足はなくなったようです。
お城公園−1

津駅からバスに乗り、中心街まで出て津城跡に行ってみました。
ここは津で過ごした15年間、私にとって最も親しみのあるところの一つです。

城跡は内堀の一部と城壁が残っています。公園の中は40年以上前と殆ど変わっておりません。静かです。
お城公園−2

残っている石垣とお堀は昔を偲ばせます。
この石垣にはよじ登って上までたどり着くのが子どもの頃の遊びでした。
石垣は10m以上の高さはあります。

そんな遊びをしても誰も特に注意なんかしませんでした。
今考えると結構危険な事やっていたのだな〜、と思いますが途中で落ちて怪我をしたというのは聞いた事はありませんでした。
津の大通り

この辺りはいろいろな商店が立ち並び、津のもっとも賑やかな通りの一つでした。
今は半分くらいシャッターが閉まっています。

ちょっと疲れたので通りに面した喫茶店に入って一休み。
店の中には私よりかなり年配の店主と、同じくらいの歳の男性の2人だけでした。
店主は客は少なく、趣味で店をやっている、と言っていました。
津出身の有名人?ア

津も日本中の市がやっているように、中心街の過疎化に歯止めをかけようといろいろと策を練ってやってみたようです。
でも日本中の殆どの市と同じように、失敗しているようです。

町のど真ん中に駐車場を作って、車で来る客を呼ぼうとした形跡もあります。
この像の設置も歴史の強調で、活性化策の一環だったのでしょうか。
 
はちみつまんじゅう−1

名物の乏しい津ではありますが、これは名物のひとつに加えてもいいかも知れません。

小学生くらいの頃、母親と買い物の帰りによく連れられて来られ、食べたものです。
当時1個10円くらいだったと思います。店の中の雰囲気はきれいになっていましたが、何となく昔のままでした。
はちみつまんじゅう−2

昔との一番の違いはその焼き方、当時は痩せたオジさんが焼き台に向かって器用な手つきでまんじゅうを焼いていました。
子どもだった私は、このおじさんの手つきをいつまでも眺めていたものです。

今は機械で焼いています。そしておじさんでなくオバサンが機械に向かって材料を定期的に投入するだけです。
何だか見ないほうがよかったと思いました。
大館商店街−1

びっくりしました。半ばゴーストタウンです。
イエ、殆どゴーストタウンです。
休みの日の午後ですから客が一番いてもいいはずですが、買い物客がほとんどおりません。

みんな買い物は郊外のショッピングモールに行くのでしょう。
それにしてもこの荒れようは一体、、、。
朝食

この通りには幾つかの食堂(レストランではない)があったのですが、それもこの1軒を残して全部なくなっています。
小学校の頃父親に連れられて入った、日出屋食堂はどこへいったのだろう、この200mに満たない商店街には本屋も確か2軒あったと記憶していますが、それもありません。

あと10年したら一体ここはどうなるのでしょうか。
大門百貨店

大門には昭和10年頃に立てられた三重県で最初の百貨店がありました。
やはりなくなったのか、、イエ、建物はありました!

1階はパチンコ屋になって、アーケードの屋根で建物が見えなかっただけでした。
いつ頃まで百貨店としてやっていたのか、よく思い出せませんが、私が覚えているのは小学校の6年生の時はまだありました。

中には今では映画でしか多分見れない、格子戸が開いて閉じるエレベーターがありました。
昇降口の上の壁には円盤の上の針が1階、2階と位置を示す時計のような装置がついていたのを良く覚えています。

ビルの形はモダンで、今でも修復すれば使えそうです。
建築後75年、、、よく戦災にも残ったものです。
観音寺−1

通称'観音さん'と呼ばれているところです。
ここに入るのは50年ぶりくらいだと思います。

観音さんの入り口までは中学生、高校生になっても来たは覚えていますが、境内に入ったという記憶は小学校の3年生か4年生の頃が最後です。

その時はここに芝居小屋が出ていたような覚えもあります。
観音寺−2

鳩がたくさんいて入り口と本堂は浅草寺のミニ版という趣です。
場所は元大門百貨店の横で、この辺りが戦前は一番賑やかだった場所のようです。

町をずっと歩いてきて気になっていたのがすれ違う人が中年以上ばっかりで、子どもを見かけない事でした。やっと見つけました。

まあ若い人がこんな寂れた大門商店街にくるとは思えないので、当然かも知れませんが。
バスに乗って駅まで

こんなに歩いたのは久しぶり、ちょっと腰にもズシンと違和感が出てきました。

観音さんを出て大通りに出てバス停を探して更にブラブラ。
朝日屋と言う大きな肉屋の前にバス停を見つけました。この肉屋だけは結構な客が入っておりました。

バスに乗って津駅まで。乗客は8人でした。。

ブラブラと歩いてみた故郷の津。
ここにはこんな店があったはずだ、でも変わってしまっている、この家は建てられて50年は経っているから昔もあったはず、でも思い出せない。

結局は自分の頭の中の記憶と、目に入る建物・風景をベリファイしながら歩いておりました。
自分の記憶の中にある情景と目の前に現れた情景が一致したとき一気に45年以上ワープ、懐かしさがこみ上げてきました。

どこへ行っても人通りが少なく、というより人をみかけないという表現が正しい、そして多くの商店が廃業でしょうか、シャッターを閉めているという今の津の姿も認識せざるを得ませんでした。

現在私は隣の市である鈴鹿市に住んでいますが、鈴鹿との違いは津市内はあちこちに歴史を感じる点でしょうか。
その理由は38万石の城下町であったこと、そして三重県の中心として県庁の所在地であったという面が大きいと思いました。

なんと言っても私にとっては鈴鹿では感じる事のできない、ノスタルジーを津では感じる事ができました。
これから自分の故郷の探訪を時々はやってみますかね。またやる事がひとつ増えてしまいました。。

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