11−03−04 初めての舞鶴
日本は底なしの不景気と国家存亡の外交の危機、それに政治の混乱が続いています。政治の混乱はかつての学生運動の内ゲバみたいなもので、関係者だけでどこかの山奥で殺し合いでもやってくれれば国民には害はないのですが、今は政党という看板、しかも与党という立場の中でやっているので全く始末に負えません。

そんな中、日本の景気とは別にアメリカは失業率が下がり始め車の売れ行きが上向きになってきたようです。
アメリカでは失業率、車の売れ行き、住宅の売れ行きの3つの指標(結果として株価?)を眺めていれば景気の動きは読めるわけですが、このうち2つが回復を示しているというのはどうも回復は本物のようです。

失業率は9%まで下がり、車の売れ行きは明らかに上向きである、というあるレポートを今週読みました。そのレポートの中にアメリカの所帯当たりの所得の分布、というのが出ていましたのでちょっとご紹介します。
収入(ドル) 収入(円換算) 構成比率 累計比率
〜10千ドル 〜80万円 7.5% 7.5%
10〜25千ドル 80〜200万円 17.8% 25.3%
25〜50千ドル 200〜400万円 26.1% 51.4%
50〜75千ドル 400〜600万円 18.2% 69.6%
75〜100千ドル 600〜800万円 11.3% 80.9%
100〜150千ドル 800〜1200万円 11.5% 92.4%
150〜200千ドル 1200〜1600万円 4.1% 96.5%
200〜250千ドル 1600〜2000万円 1.5% 98.0%
250千ドル〜 2000万円〜 1.9% 100%

アメリカでは夫婦とも働きというのが普通ですから、収入は夫婦合算の収入と見なくてはなりません。全体の70%が75000ドル(円換算で600万円)以下となっています。
日本の同様な統計を探してみたのですが、統計のやりかたがアメリカの調査方法と違ったり、不明を調査結果の中に入れてみたり(不明があった場合は、調査して得られた結果に按分して乗せるのが普通のやりかた)同じ尺度で比較をする事ができませんでした。

それでも無理して比較するとアメリカの400万円以下が全書帯の約50%に対し日本は約33%、アメリカの600万円〜1000万円が推定で5世帯に1世帯弱に対し、日本は同じく推定で5世帯に2世帯くらいという結果になり、統計上は日本はアメリカよりうんと「格差」の少ない国に見えました。

特に年収200万円以下がアメリカでは4世帯に1世帯となっていますが日本は10世帯に1世帯以下でこの部分は目を引きました。
オハイオにいた時によく聞いたのはアメリカには1000ドル/月くらいで暮らしている人は一杯いる、という話でした。

アメリカでも生活保護制度はありますが審査が非情に厳しく、親戚からの援助の可能性など申請をすると経済的なバックグランドを徹底的に調べられるそうです。
ただ生活保護もいろいろなレベルがあり、フードスタンプという生活保護を受けている人はかなりの数に上るようです。(確か10世帯に1世帯くらいだったと記憶しています。)

フードスタンプとは食料券で、これを持ってスーパー等に行くと食料が無料になります。1ヶ月の支給限度はそれぞれの人によって違い、平均で1ヶ月150ドルくらい(約1万2000円)と聞いていました。
日本の生活保護のように年金生活者より実質的に多い金額を受け取るケースがあるというようなメチャクチャな制度ではないようです。
フードスタンプの受給者と日本の生活保護受給者の比率を比較してあああでもない、こうでもないという記事が最近目立ちますが単純比較は間違いだと思います。
さて今週は京都府舞鶴市にある取引先に行ってきました。
舞鶴というところは実は私は今まで一度も行った事がないところでした。という訳でアレ?舞鶴ってどうやって行くんだっけ?とかいう情けないレベルで会社では周りの人がン!という表情をしていました。

木曜日の午後、白子駅から名古屋、名古屋から京都に向かいました。名古屋→京都は午後の早い時間帯なのですが結構混んでおり、大半がサラリーマン風の乗客です。
世の中不景気だと言われていますが、なかなかどうしてサラリーマンの出張は決して減っていない感じでした。

京都で山陽本線に乗り継ぎます。山陽本線の乗車率は30%以下、ガラガラの在来線に列車に乗って行く旅、なかなか味がありました。
園部を過ぎる頃から車窓から見える山々には雪が白く見えます。カタコトと揺られての旅、これが仕事でなければ最高です。

降車駅の東舞鶴には6時丁度に到着、駅の改札には取引先の方2名が待っていてくれました。

ホテルへチェックインの後この2人と食事をして再びホテルに入ったのが8時半、まだ寝るには早いし、、、と言う訳でホテルのフロントで近所で安心して一杯やれるところを聞いてそこに行ってみました。

ホテルの周りは殆どの店のシャッターが閉まり街灯も疎らで、何だか寂しい町です。(後でわかったのですが、東舞鶴駅の近くは何もないところで駅の北側の海岸に近いところが賑やかなところだったようです。)1時間ほどで店を出ましたが霰のような雪が相当に降ってきました。それに気温もグンと下がってきました。舞鶴は寒い、、、実感しました。

翌日は朝の9時半から会議でした。会議のあと工場の中を見せてもらいましたが、各工程のキーポイントとなる具体的な管理の方法などは一切教えてくれず、こちらから質問をしても一般的な事しか答えないという徹底振りでした。
やはり製造工程はノウハウの塊である事を窺わせました。

予定を終えたのが3時ちょっと、帰りの電車の時間まで間があります。このまま駅に行っても仕方がないので、工場の近くにある舞鶴引揚記念館に寄って行くことにしました。
そうです、舞鶴と言えばかつては軍港都市、太平洋戦争終結後は外地に残された日本人の帰国の玄関となったところです。

舞鶴はその地理的条件から殆どが支那大陸からの引揚者とシベリア抑留者が解放されて上陸したところでした。
記念館は港が一望できる丘の麓に建てられておりました。
館内はやはりシベリア抑留者に関する展示が大半を占めておりました。

シベリア抑留者は60万人、その中の6万人が抑留中に命を落としたとありました。ヤルタ会談を無視した国際法違反でこれだけの日本人が亡くなった事は我々は肝に銘じておくべきだと思います。

そして抑留地はバイカル湖の西、カスピ海の近くまであったのを展示されている地図で知りました。

館内は平日の午後という事もあったのでしょうか、数人の人が見学しているのみでした。
館内は広くはありませんが、時計を見ながらの見学で時間の余裕がなく、残園ながら展示物など全部を見ることができませんでした。

時間のない中、せっかくここまできたのだからという事で舞鶴港が見渡せる丘の上に登ってみました。曇り空ですが舞鶴湾が見渡せました。今から60年前にはここに多くの引き揚げ船が到着したのでしょう、この日は静かにその佇まいを見せてくれていました。

時間がありません!! 急いで丘の上から記念館の方に戻り、準備して頂いた車に乗り、東舞鶴駅に向かいました。仕事で来た舞鶴ではありましたが、空いた時間を利用して日本の歴史の一齣を垣間見たような気がしました。
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