09−11−30 いろいろな人達と

11月22日は父親が亡くなって丸6年、つまり七回忌になります。
79才という歳で去った父は今にして思えば、もっと生きていてもよかった歳だとつくづく思います。医師が肺ガンを見抜けず手遅れになり、苦しんで死んでいった父を思うと本当にやりきれません。

特に肺以外は全く健康であったという事を後で主治医から聞いて、本当に悔やまれました。父は戦争で九死に一生を得、その後を一生懸命に生きて、そして逝ってしまった、人の一生というのは生まれた時に既に決まっていると言われますが、父の一生を振り返ると実に感無量です。

今は故郷に帰っても泊めてもらうところがありません。娘のアパートは狭いし、妹夫婦は岐阜にいるので遠方だし、結局はホテル住まいになってしまいます。
父親が生きており、母親も元気だった頃は家に泊めてもらい、父親と一杯やったのが懐かしく思い出されます。

22日には無事七回忌を済ませました。残念ながら肝心の母親は動くのが不自由な状態になっており、法事そのものには参加が出来ませんでした。

母親は近所にできた老人ホームにこの10月から入居しており、介護サービスを受けています。

自分の家にいるよりもホームでいろいろな人と接している方がいいようで、顔色が以前よりも良くなっていました。

老人ホームというのは実際に見るまではどんなところなのか少々心配しておりました。

しかし実際に行ってみると部屋は10畳以上で広々として清潔で、窓の外からはたくさんの梅の木が見え、その先には野菜畑が続いているという環境で、大いに安心をした次第でした。

7ヶ月ぶりに訪れた我が故郷、いろいろな人にも会い短い日程ではありましたが充実した時間でした。

22日の夕方に故郷から東京に向かいました。もう1日〜2日くらい故郷に居て用事を済ませたかったのですが、翌日の23日は本社で重要な打ち合わせがあり、これに出席しなくてはならなかったのです。

今年の1月に結婚した娘は仕事を辞め、今は茨城に住んでいます。父の七回忌で来ていたこの上の娘と2人で名古屋から新幹線に乗りました。
娘は池袋のホテルまでついて来てくれ、部屋の中まで荷物を入れて、そして茨城の方まで帰って行きました。

翌日は本社で予定通り打ち合わせ、5時ちょっと過ぎに一旦終わって、翌日に持ち越すことにしました。頭痛がするような打ち合わせでした。
夜はみんなで食事をしようという事になり六本木まで。
ナゼ六本木までなのかな〜、と思ったら今日は休日であちこちのお店が閉まっており、やむなくここになったという事でした。

食事を終えてブラブラと六本木駅まで歩くと、遠くに東京タワーが見え、通りはきれいにイルミネーションで飾られています。(この辺はよく知らない土地ですが、けやき坂通り?) そうかー、、、もうこういう季節になったんだ、、、。

そう言えば12年前の97年11月の同じ頃、やはり日本に出張をしていた時の事を私はぼんやりと思い出しておりました。

思い出した理由は山一証券の廃業という大きなニュースが当時あったからです。
私もささやかな金額でしたが、山一証券に口座を持ってオハイオに転勤になるまで取引をしておりました。

出張中ではありましたが、スケジュールの変更でぽっかりと1日穴があいたので、池袋の山一証券に行ってみました。
びっくりでした。長蛇の行列でテレビ局まで取材に来ておりました。

私も行列に並んで整理券をもらいました。そして山一の社員に聞いてみました。
「私はここの支店での取引ではないのですが、XXXの払い戻しはして頂けるのでしょうか?」

返事は基本的に支店単位での対応になるので、それは自分の取引がある支店に行って下さい、という返事でした。
あの時は本当にびくりしたな〜、、、あんなに大きな会社が潰れるなんて。

でもあの時に行列を作って並んでいる人達に対し声を枯らして、「ご心配なく、皆さんの資産は大丈夫です!きちんと保証されています!なくなったりしませんから!」、と言っていた私と同じ年齢くらいの人、今頃は何をしているのでしょうか。

今世界中は大不況です。今の日本を見ていると同じような金融機関への取り付け騒ぎが起きないと誰が言えるのでしょうか。現政権は全く信用できず、頼りになりません。我々庶民はどうすればいいのでしょうか。

今回もスケジュールの中に親しい友人達とのミーティングを可能な限り入れてありました。限られた期間であり、会いたい人の何分の一しか合えませんでしたが、それでもお世話になった人達、趣味の仲間、昔の大先輩、その他の人に会うことができました。

私の場合、社内の連中と液体燃料を注入するのは必要最小限としています。”必要”、つまり仕事の延長線の場合のみです。特別な例外を除き、社外の人が殆どです。
でも会社の人にも1人だけお会いしました。いろいろと親しくしてもらった人です。お元気でやってみえるようで安心しました。

趣味の仲間で現役のKさん、Tさんの2人は、バリバリとやってみえますが、この不況で仕事がどのようになっているか話をしてくれました。

どのように努力をしても、工夫をしても泥沼のような状態は抜け出せないと嘆いていました。
でも業界が全く違う2人の話はやはりいつ聞いても新鮮でした。

日本にいた頃からつき合いのある埼玉在住のMさんは、今年の8月に定年を迎え悠々自適の生活を送ってみえました。
立派な家に住んでみえ、毎日が充実してみえるご様子でした。

中学校のある先輩とも合いました。
その先輩は私が故郷に帰ってきたら、一緒にいろいろとやりたい事がある、早く帰って来い、と言ってくれました。

昔の大先輩とも久し振りに合いました。定年退職後第二の勤めを5年ほどやり、更に第三の勤め中という元気な方で、私とは全く違った視点でのいろいろなご意見は、大いに参考になりました。
しかし毎日千葉から原宿まで、片道1時間半以上をかけて通勤をされているのにはびっくりしました。

1月に結婚をした娘のところにも行ってきました。娘は手料理を作って私を歓迎してくれました。自分の子どもというのはいつまで経っても幼かった時の事とダブってしまい、何だか涙が出てくるような感じでした。
娘は私と一杯付き合ってくれ、顔を赤くして幸せそうでした。
残念ながら娘の主人は毎日夜遅く、訊ねた日も夜の10時を過ぎて帰ってきましたので十分に話をする事ができませんでした。

今回の日本訪問で会ったいろいろな人、それぞれの年代に応じてそれぞれの人生を歩んでみえました。さあ、明日はオハイオに帰る日です。今の私にとって日本は訪問するところで、生活はオハイオにあるのです。

日本滞在はあっという間に終わってしまいました。
少し仕事が入ったものの、このようにゆっくりとプライベートで過ごす日本は滅多にないのです。私の無理を聞いてくれたAさんにお礼を言わなくてはなりません。

今年もあと1ヶ月です。本当に1年の経つのは早いものです。

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