09−05−24 ミラン生まれの偉人の家

日本人、イエ、世界中の人で発明家のトーマス・エジソンを知らない人はいないと思います。このエジソン、実はオハイオ北部のミランという町で生まれ、そこで7歳まで育っているのです。(その後、ミシガン州に移住しています。)
エジソンがオハイオ生まれである、というのは1996年にオハイオに赴任した直後に知り、ミランにはエジソンの生家が小さな博物館になっているのも知っていましたが、なかなか訪れる機会がありませんでした。

この3連休の中日、やっとミランに行くことができました。ミランはオハイオ北部のクリーブランドと北西部のトレドの中間で、コロンバスからは丁度200km、2時間弱のドライブです。
前日に博物館に電話をかけて、日曜日の開館時間を確認すると、この季節は午後1時から夕方の5時まで、ガイドは最終が4時半まで、という事を確認しておきました。

お天気は薄曇りですがマズマズ。1時頃に着けばいいという事で家を11時頃出ました。

オハイオの典型的な田舎町

ミランまでは半分くらいはフリーウエーで行けますが、残りは一般道路を使って行きます。
一般道路でもトウモロコシ畑の中は100kmくらいは出せますので、全然問題はありません。

そして20〜30kmごとに町を通り抜けます。オハイオには人口1000〜2000人くらいの小さな町が点在しています。

明日はメモリアルデーなので町中の至る所には大小の星条旗が掲げられています。メモリアルデートは”戦没者追悼記念日”、の事です。
博物館の事務所

車のナビの誘導で行ったのですが、目的地にたどり着きません。庭の手入れをしているオジサンに訊ねようと車を降りるとニコニコしながら、

「エジソンの、博物館に行くのでしょ?ようこそ我が町へ。博物館はあの道を横切って、教会の向こうですよ。」

よく訊ねられるのでしょうか、慣れた口ぶりで案内をしてくれました。
ナビの地図とはかなり外れておりました。
エジソンの生家の外観

ここの正式な名前は”Edison Birthplace Museum”となっていました。事務所で7ドル払うとガイドをしますので、待ってくれ、と言われました。

待っていると更に中国人の親子4人連れがやってきて6人で生家に連れていかれ、ミニミニ・ツアーの開始です。

ガイドさんは体格のいい30代の女性で、「私は早口だから、もし早かったら言って下さい。」、と言ってくれました。
生家はかわいい家で、よく手入れされていました。
エジソンの電球

エジソンは白熱電球のフィラメントに竹を使って電球を一応実用化しました。

実は白熱電球を”発明”したのはエジソンではなく、別な発明家です。
エジソンは竹をフィラメントに使うことによって、それまでの電球の寿命(10時間とか14時間とかガイドさんは言っていました)を1000時間以上にしたそうです。

電球のデモは竹のフィラメントを使ったもので、ボワーっとした黄色の何とも言えない光でした。
エジソンの想像画

エジソンの先祖は1730年頃にイギリスから移民でアメリカに来たそうで、父は政治活動のせいでカナダに行き(行かされたのか?)、そしてオハイオに来たそうです。

父方の祖父、母方の祖父共に軍人で”Captain”と言っていましたから大尉、つまり将校ではあったようです。

エジソンのこの肖像画は、ここ以外にスミソニアンと、もう一箇所(聞き漏らしました)の3箇所にあるそうです。

エジソンがこの家に最後に訪れたのは1923年、彼が76才の時で、この家ではまだランプとロウソクが使われており、エジソンは大変なショックを受けた、ともらったパンフレットに書かれてありました。

土地は1841年に購入され、同時に家が建てられ、今に至っています。
当時使われていた家具などは残されていますが、全部今のものに比べるとサイズが小さくできています。
つまり当時の人は、今よりも小柄であったという事でしょうか。

エジソンは1847年に生まれ、1931年に84才で亡くなっています。
リビングルーム

エジソンは7人兄弟の末っ子で、こに7才まで住みました。
7人兄弟は男が2人で、女が5人とか説明しておりました。

ここには立派なな暖炉もあり、その上には大きな鏡もありますが、エジソンが生まれた1847年当時からあったのかどうか定かではありません。

一時期はこの家におじさんも住んでいたと言いますから、全部で10人が住んでいた事になります。
子供の寝室にあったもの

ベッドはスプリングがまだない時代ですから、木枠にロープをきっちりと張ってその上にマット置く、という構造になっていました。

椅子の横にある丸い入れ物はいわゆる”おまる”です。家にはトイレはなく、夜はこのおまるにおしっこを溜めて翌日に外に捨てます。

昼間は外で用を足しますが、冬のオハイオは2mくらいの雪が積もってマイナス20度になるし、当時は外には狼とかいろんな動物がいて、おしっこは命がけであったようです。(ガイドさん、真顔で言っていました。)
子供部屋のタンス

当時はお風呂は大体1週間に1回、(とガイドさんはこう言いました)、冬は部屋を暖めて、お湯を沸かして、お風呂を浴びるのは大変な労力を要したそうです。

1850年頃と言えば日本では江戸時代後半、当時のアメリカの家を見て、そして生活の様子を聞くという機会はあまりないので、興味津々でした。
ガイドのオバサン

大きな声の人で、割とわかりやすい英語をしゃべってくれました。

エジソンは発明家と同時に非常に優秀なビジネスマンで、私がエジソンに興味をもった最大の点はここでした。

エジソンは、「天才は99%の汗と1%のひらめき。」、と新聞に書かれたのを、そんな事は言っていないと否定したそうです。

エジソンは、「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄、」、と言ったそうです。
エジソンの研究所で作られた白熱電球

エジソンの功績は、実用化したこの電球に電気を供給するための発電所と、配電システムのビジネス化に成功した点だそうです。

また発明というのは、誰が本当の発明者なのか区別が難しく、エジソンは自分の発明を守るために、訴訟はいとわず、生涯訴訟に明け暮れていた、というのが事実のようです。
印字電信機

エジソンは12才の時、鉄道の新聞売りになって、駅長の子供の命を救ってそのお礼に電信術を習い、1870年まで電信のオペレーターで働いていたそうです。

印字電信機の構造はそんなに複雑というようには見えませんでしたが、部品の加工精度は高そうでした。
オハイオの母さんは力持ち

台所は地下室にあります。
当時はどんな道具を使って料理などをしたか、説明をしてくれます。

これはワッフルを作る道具。メチャクチャに重たい。柄を持って片手では支える事ができません。私もやってみましたが無理です。

こんな道具を当時のお母さん達は振り回していたのですから逞しかったのでしょうね。
会社にいるお母さん社員達、確かにこれらの人の末裔であるというのがよくわかります。
台所の暖炉

台所の暖炉は部屋を暖めるだけではなく、料理をするためでもあります。
しかし鉄の鍋など、やはり重くて、これを持ち上げると腰を痛めそうです。

料理道具以外にアイロンとかの一般的な生活用品も置いてありました。

しかしオハイオはマイナス15℃とか20℃になり、雪も当時は2m以上積もる事が多かったそうですから、これだけの暖房で冬を越す、というのがいかに大変だったか偲ばれます。
小さな家です

外から見ると小さな家ですが、地下室を含めると3階で、基本的な構造は今の家と同じです。

エジソンはこの少年時代を過ごしたなつかしい家を、1906年に自分のものにしました。(それまで姉が住んでいた)

そしてエジソンの娘が、1947年から一般公開をするようになり、1965年に” National histric Landmark”(何と訳していいのかわかりません。) に指定されたそうです。
蓄音機

エジソンの発明の中でも有名なものの一つ。
左右にある蓄音機は日本ではなかなかお目にかかれませんが、こちらではアンティックショップでよく見かけました。

円筒形の筒に溝が切られて録音されており、、円筒を回転させて再生するものです。

私がオハイオに来た頃は500ドルくらいで手に入ったのですが、今は幾らくらいになっているかなー。
みんな買いまくっていましたねー、そう言えば。
キネトホン

蓄音機と映画を連結したトーキーのさきがけ。

エジソンはGEの資本力を生かして、35mmフィルムの規格を作ったりして(これは今も使われている)、大もうけをしたそうです。

エジソンは1200以上の発明をしたそうで、やはりいろんな意味で天才です。
でも子孫の話は何も出てきませんでした。普通の人達なんですかね〜。
エジソンの息子からの寄贈品

エジソンは白熱電球のフィラメントに竹を使って、実用化した訳ですが、売り出しの時にこれをかなり強調したそうです。

ワッペンは白熱電球発明100周年を記念して(1879年〜1979年)を記念して、京都が作ったワッペンのようでした。

竹に関係のあるものという事でしょうか扇子、竹のへら等が陳列されていました。
エジソン生家のご近所(1)

ミランという町は今回初めて行きました。ここは本当に普通の典型的な中西部の町で、エジソンの生家の周りは閑静な住宅地になっておりました。

エジソンの博物館はエジソンの生家とその中に残された当時の家具・生活用品、そしてエジソンの偉業の一部が展示されている、小さな、小さな博物館でした。

これはかなり古いデザインの大きな家でしたが、家も庭も本当によく手入れされていました。
エジソン生家のご近所(2)

エジソン生家の奥は木に囲まれた、住宅地が続いていました。

この日はここに1時間半ほどおりましたが、見学に来たのは私たち2人以外に、全部で10人くらいだったと思います。

家自体は1841年に建てられたものですから、これからも維持をしていくのは大変だと思いますが、このように普通の家並みの中に保存されているというのはいかにもアメリカらしいと思いました。

エジソンは日本との関係も以外と深いというのも今回わかりました。NECとか東芝の創業者とか野口が大きな影響を受けたとか、野口英世、御木本幸吉とか尾崎行雄まで親交があったというのが、後で調べてわかりました。

ヘンリーフォードとは生涯の友人であり、電球の実用化では泥沼の訴訟で戦い抜き、オカルトの研究とか宇宙との交信を真剣に試み、巨大な事業を次々と興し、というようにエジソンというのは非常に生臭い、そしてアメリカ人らしい人間だったようです。

ここの博物館はエジソンの発明品そのものを詳しく知るためではなく、エジソンという天才が子供の時どんなところで育ったのか、そして1850年頃のオハイオでは人々はどんな生活をしていたかを知るにために、なかなか興味深い所でした。
改めて現代の生活というものが、いかに便利であるか、つくづく思い知らされた1日でした。

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