04−06−12 オハイオ生活9年目:2923日目
1996年6月12日の朝、東京近郊に住んでいた私は日本を離れオハイオに出発するために朝6時に起きました。
オハイオへの赴任に当たり、前日来ていた私の父母と6人で朝食を摂り、私たちは成田に向かいました。

両親、カミさん、下の娘の見送りを受け、12:00発のフライトに乗った私は、12時間後に無事シカゴに到着。
更にシカゴからコロンバスまでのフライトに乗り継ぎ、コロンバスに着いたのが同日6月12日の午後2時前だったと思います。
太平洋を越えて、アメリカ大陸へ
空港にはここで8年半を過ごした私の前任者のSさんが迎えに来てくれておりました。

大きなトランクと中くらいのカバン2つをSさんの車に積み込み、空港を出て当面の住まいとなるアパートに向かいました。

オハイオの会社にはこれまで出張で6回、通算6ヶ月近くの勤務・生活経験がありましたがやはり転勤となると不安がありました。

そしてそれまでの本社での仕事と180度違う内容を担当する事になった私に対して、前任者との引き継ぎ期間を5ヶ月間も取ってくれた上司の副社長に感謝しつつ、この日からオハイオでの勤務・生活が始まったのでした。

1年間は単身生活の予定で、生活面の不安、言葉の問題、オハイオ人との仕事の中身に対する不安、それまでいろいろと頭の中で考えてきましたが、「行動するしかない!」と自分に言い聞かせておりました。
前任者のSさんはその年の11月中旬に予定通り日本に帰って行きました。
その時の担当する部門には60名少しのオハイオ人、それにベテラン日本人スタッフのKさんがおりました。Kさんはオハイオ勤務4年目で、技術的にも非常に明るく、私をよくサポートしてくれました。

それから3ヶ月後の97年2月、新しい駐在員のTさんが赴任し、99年5月にKさんが6年の駐在勤務を終えて帰国し、Kさんの交代でWさんが赴任、やがてTさんも5年の勤務を終了。
これまで3名体制を何とか維持できたのですが、02年1月以来とうとう2名体制になってしまいました。
料理が得意な人は、苦にならないのでしょうが、、、、
私が96年赴任当時のオハイオ人パートナーのR君は、根はそんなに悪い人間ではないのですが、日本人と一緒に仕事をするマインドに欠ける男で、2年程後に他の部門に転属をしてもらいました。

それからというもののオハイオ人のパートナーはMさん、Kさん、Jさんと変わり今はEさんになっています。

このように目まぐるしく人が入れ替わる中で、オハイオ人スタッフの数も増え続け、今は90名を超えて100名近くになってしまいました。
オフィスも3カ所に分散しており、私のいるオフィスから一つは2km、もう一つのオフィスは10kmも離れています。

これらのオフィス間の移動、昼食も2km程離れたところまで行きますので、全ての移動は車になります。
関連する部門が2つ、それぞれ50km、100km先にあり、ここにも時々行かなくてはなりません。日本ではなかなか考えにくいのですが、これにも慣れました。

オハイオ人相手の仕事は日本人だけで仕事をやっている5倍くらいのストレスが溜ります。
考え方・行動パターンの違い、能力自体のバラツキの大きさの違い(オハイオ人のバラツキは非常に大きい)、言葉の問題、それに多分人種差別の問題、等が複雑にからまって、正直疲れます。

このストレスは9年目を迎えた今も減るどころか、益々増えつつあります。
97年5月、やっとカミさんと下の娘がオハイオにやってきて、単身生活にピリオドをうつ事になりました。
2人が来る前にやっておく事が山ほどありました。先ず、住まい。
上の娘も休みにはよく来てくれました
これは思い切って、一軒家を買いました。全額ローンで、です。不動産屋に希望だけを言って、20分で決めてしまいました。

アパート生活の時は電子レンジ、食器洗い機、洗濯機、乾燥機とかは備え付けでしたの必要なかったので、これも買いそろえる必要がありました。家具も全部買わなくてはなりませんした。

更に、高校2年生で来た娘の学校の事。ここには日本人学校はありません。オハイオ人といっしょに現地校で娘は高校生活を始めましたが、これの問題。

全てゼロからのスタートでした。
最初の頃は歯医者に行くのも、恐る恐るでした。買い物に行っても変な訳のわからない物を買ってしまったり。

でも楽しい思い出も一杯できました。夏休み、冬休みを使った旅行。フロリダとか、カナダのプリンスエドワード島までも車で出掛けました。

ワシントンDC、ニューヨーク、ボストン、近くではナイアガラ、シカゴ(と言ってもそれぞれ600km以上ありますが)、その他あちこち行きました。

最近は遠出よりも近く、つまりオハイオ州内の自然を楽しむようにしています。
確かに、いわゆる有名な観光地もいいのですが、オハイオに住んでいる者にしかできない事をやろうと気持ちを切り替えたのです。

ここオハイオ・コロンバスは日本人が生活する上で、特に不自由を感じることはありません。
買い物・医療・その他、本格的な日本食材店もレストランもあります。

テレビも1チャンネルだけ衛星放送で見れますし、日本の新聞も半日遅れで自宅に配達してくれます。電話も日本まで1分間8−9円ですから1時間話しても、500円くらいです。
普段の生活は特別な問題が起きた時は別として、2年もすれば殆ど慣れてしまいました。
8年間を振り返ると、あっという間に過ぎ去ったというのが実感です。
ちょっと残念なのが、96年6月からの2年間、デジカメを持っていなかったので、オハイオ生活の新鮮な印象の時期に写真を一杯残せなかった事です。
2年後にデジカメを買ってから、今日までの6年間、約10000枚の写真を撮りました。
この頃は父も本当に元気で、4年後には亡くなるとは、、、
96年6月12日の朝、父母と私たち4人の計6人で撮った写真に写っている父は、昨年の11月に亡くなってしまいました。
父の危篤の連絡を受けたとき、直ぐに飛んで行けない実態に、
「やっぱり日本から遠くに来ているのだなー。」、とつくづく思いました。

赴任当時それぞれ高校生であった2人の娘も、今は社会人になって巣立って行きました。

日本の私の家は借家にして、娘達は別々に日本で生活をし、年老いた母は父のいなくなった家で一人きり、私とカミさんはオハイオ、よく考えると家族バラバラなのです。

オハイオに来て2922日、2004年6月12日の今日は2923日目です。一カ所に長くいるのも悪くはありませんが、9年目を迎えてしまったオハイオ生活。
そろそろ気分一新を必要としている時期に差し掛かったと思うようになっています。
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