01−05−25 5年目のオハイオ
私の家内と下の娘は1997年5月24日にアメリカにやってきました。
私は丁度日本への出張があり家族の渡米の案内をする事ができたのです。、5月21日に家族が住んでいた埼玉のマンションに行き、最後の後片づけを手伝い、22日に家内と、下の娘の3人でマンションのドアーに鍵をかけ、足掛け10年の埼玉での生活にピリオドを打ちました。
アメリカに来る前は埼玉に住んでおりました
私自身は1年前にすでにアメリカに単身赴任をしており、家族の来るのを今か今かと待っていたのです。

上の娘はその春の受験に残念ながら失敗、もう1年がんばるという事で、都内の友人の家に下宿をさせてもらい予備校に通う事になっておりました。
マンションは社宅なので、私と家内と下の娘がアメリカに行ってしまうとそのまま住むことができなかったのでした。

上の娘1人を日本に残して、3人だけがアメリカに行くという、家族バラバラの生活の始まりでもありました。
私達家族にとっては大変な転機だったのです。

下の娘は通っていた高校2年生の春であり、友人達と別れるのがどうしてもイヤな感じでした。
それよりも大変なのは上の娘で、浪人という微妙な時期に両親が外国に行ってしまうという環境に置かれることになってしまったのです。
マンションにあった荷物はアメリカに船便と航空便で3回に分けて送りましたが、持っていけない荷物は家内と私のそれぞれの実家に送って預かってもらう事にしました。
22日は都内のホテルに宿泊。4人での食事はしばらくはできないという事で、中華料理のフルコースを奮発。池袋のサンシャインの90階から都内の100万ドルの夜景を見ながら満喫。

その夜は上の娘もホテルに泊まり、翌朝に下宿に帰っていきました。「さよなら。」娘はアメリカに行く3人に向かって小さな声で言いました。
みんなはアメリカに行ってしまい自分一人だけが日本に残り、しかも浪人生という身分。口には出しませんでしたが、本当に寂しかったに違いありません。

その日は日本での最後の手続きを済ませて、夕方に成田の日航ホテルまで移動そして宿泊。
翌日の5月24日、1200出発のシカゴ行きのJALに無事乗ることができました。
家内も下の娘も国際線、しかも12時間のフライトは初めての経験。でも思ったよりリラックスしておりました。

1997年5月24日、朝9時、とうとうシカゴに着きました。2人は空港の大きさにびっくり。
結局コロンバスに着いたのは午後の1時過ぎでした。不安そうな2人を空港に預けてあった自分の車に乗せ、さっそく買ったばかりの自宅に向かう事にしました。

が、実は私自身がまだアパートからの引っ越しを全部終わっていなかったので、その前にアパートに向かいました。

長旅で疲れている2人をアパートまで連れて行き、残っていた細々としたガラクタを車に詰め込む作業を手伝わせてしまいました。これは今でも申し訳なかったと思っております。
新しい住まいは2週間前に買ったばかりの家で、友人に頼んであった洗濯機、乾燥機それに冷蔵庫は無事運び込まれており、最小限の生活は始める準備ができておりました。
とは言うものの、娘のベッドとか、その他日本から船便で送った荷物はまだ運び込まれておらず、私がアパートで使っていた台所用品、その他生活用品を使っての生活からスタート。
いろいろな物を買い揃えて、まともな生活ができるようになったのは家内と娘が来てから2ー3カ月経った頃からではなかったでしょうか。
タイニングテーブルとか、ソファ、とにかく家具は日本から何も持ってきておりませんでしたので、全てを買い揃えなくてはなりませんでした。
上の娘が来たときはみんなで旅行をします
全ての事は自分でやるしかなく、誰も助けてくれません。家内に先ず覚えてもらわないといけないことは、車の運転でした。
野菜一つ買うのも歩いて行ける距離にはどこもなく、バスも電車もありませんから車の運転ができないと生活ができないのです。

上の娘は着いた日の2週間後からある私立大の英語のサマースクールの授業を受けるために、その大学の寮に2月間入る事になっておりました。

6月から8月はアメリカの学校は夏休みで、16才でアメリカに来た下の娘はこの間を利用して少しでも英語の力をつけておき、9月から始まるアメリカの高校の授業についていけるよう、準備が必要だったのです。

私は会社のアメリカ人に紹介してもらったこの私立大の国際教育部に、事情を説明するために何回も通いました。授業料と寮費は私立大ということもあり、相当に高額でした。
自分の意志でアメリカに来たわけではない娘にとって、このサマースクールでの経験のインパクトは大きかったようです。
下の娘は3年間をアメリカの高校で過ごしたわけですが、3年目になってようやく慣れることができた、つまり慣れるまでには丸2年が必要だったと言っておりました。
このようにして始まったアメリカ生活。
私は間もなく6年目に突入。家内は5年目、下の娘は無事アメリカの高校を3年で卒業(オハイオは高校は4年間、2年生に編入でした)日本の大学に昨年の4月から行っております。上の娘も1年間の浪人で無事志望校へ。

家内は半年くらいで帰ってしまうのではないか、と思っていたらしいのですが、今ではあちこち私の知らない所にも車で出掛け、医者にも何とか自分で行けるようになりました。交通事故はなし、と言いたいところですが、4年間で通算3回、まあ日本人駐在員の奥さんの平均的かな?

家内と下の娘が、全く環境が異なるアメリカでの生活を開始したのが4年前の昨日、つまり1997年5月24日。
思えば月日の経つのは早いものです。
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