真夏の日本にて(05−07)
オハイオ駐在になってから10年目の夏、久し振りに少し余裕のある、休みを兼用した日本滞在をしました。個人的ないろいろな用事を済ませる必要があり、日本に行ったのです。
季節は真夏、連日30℃を超える気温には参りましたが、まあ何とか計画していた事の80%はやってきました。

そんなプライベートの日本滞在、写真とコメントでさっとまとめてみました。
静かで、ゆったりです 新しいシカゴ・成田便に乗りました

911事件の後、アメリカ・日本間のフライトは大幅に減りましたが、利用客はそんなに減った訳ではなく、いつも満席です。

そんな中、JALが週3便シカゴ・成田便をこの前から増やしました。予約の時の座席指定(01C)を見て、あれっと思いました。

そうです、この便はファーストクラスがなく、ファーストシートもビジネスクラスに使っているのでした。もちろん、ビジネスクラスのビジネスシートが殆どですが。

何だかラッキー、って感じでした。
クーラーが故障!!

母の家に行ったときは、私は2階のクーラーのついている部屋に寝ます。2階はクーラーがあるのは一部屋だけなのです。

ところが、何とこの部屋のクーラーが、2日目に故障してしまいました。修理が完了するまでの2日間、クーラーなしで寝ました。暑かったです。

原因は虫が運んだ藁とかが排水管を塞いでいたのです。それで、室内機から大量の水が漏れ出し、テレビまでも水浸しになってしまったのです。
オハイオの気候に慣れている私は、夏はクーラーなしでは過ごせない、身体になっています。
左下の布団の上で、のたうち回っておりました
先ずはお墓参り

父が亡くなって10月目くらいの時、先祖代々の墓を母親が住んでいる近くの寺に、移しました。歩いて6−7分で行けるところです。

バケツ2杯の水で、お墓の掃除をして、新しい花を供えました。
夏の猛暑で、花は直ぐにダメになってしまいますが、仕方ありません。

早いもので、この11月は父の三回忌です。娘もお墓の前では、神妙です。
少年の海−1

夏休み、高校生までの私にとっては朝から夕方まで泳いで過ごす事でした。

津の古い家を壊すので、荷物の整理に行った帰り、ちょっとだけ海岸に寄ってみました。
突堤があって、競艇場になっていた辺りは、きれいなヨットハーバーになっていました。

このヨットハーバーに続く、砂浜は健在でしたが、この日は風が強く、泳いでいる人は見掛けませんでした。
オレなんか、少々の荒波、ものともせず泳いだんだけどナー、、、、、。
お腹の出方が、像と似ている? 少年の海−2

後ろの像は、観海流という泳法を江戸時代に津藩に伝授した宮発太郎信徳という人です。

観海流という泳法は、平泳ぎに似ていますが身体を水中でかなり立ててゆったりと泳ぎます。水練ですから武芸の一つです。

私はこの泳法を3年間習いました。そして11才の時(小学校5年生)、2500mの遠泳をこなしました。

以来、私は陸と水中を行き来して生きてきましたが、オハイオに行ってからは陸の生物になってしまいました。だって、オハイオ、海がないんだもん。
生まれ故郷

私は松坂市で生まれ、3才までそこにいました。

生まれた家と土地は売ったので、残っておりませんが微かな記憶にある、小さな神社は昔のままだという事です。
ここで写真を撮っていると、私の知らない同年代か、ちょっと上の女の人が、「Nさんですか?」、と声をかけててきました。私は、「はい」、とだけ答えました。

私をNと呼んだこの方は一体、どなただったのでしょうか?私が叔母の家から出てきたのを見ていたのだと思います。
残念な事に名前を聞くのを忘れました。
まだ十分に住めそうな感じなのですが、、、、壊します 育った家

私が育ったのは津市で、一番思い出があります。写真は台所です。

18年前まで両親が住んでいましたが、その後ずっと空き家になっており、とうとうこれを解体する事に決めました。
この空き家には私がオハイオに転勤するときにいろいろな物を預けてあったのですが、移動させるのも面倒なので、一部を残し、処分する事にしました。

自分が育った家がなくなるというのは、何だかもの凄く寂しい感じがしました。
上の娘と子供の時の服

古い家を解体するので、荷物を整理していたら、娘が小さな子供の時に着ていた服とか、学校の作品が段ボールの箱に何箱も出てきました。

これらは全て残しておくことにしましたが、その中の幾つかを東京で会った、上の娘に渡してあげました。
私はよく覚えているこのジャージその他を2着渡しましたが、娘は覚えていないと言っていました。

それに小学校2年生の時のノートも1冊渡してあげました。
娘は嬉しそうでした。
可愛い服を持って、にっこりです
あんまりガイドとして役に立たなかった 愛地球博−1

愛知県でやっている万博、下の娘に案内をさせて行ってきました。

1970年の大阪万博と比較すると、細かい部分は別として熱気をあんまり感じませんでした。
あの時は三波春男の歌、それに太陽の塔のシンボルマーク、月の石、この3つで盛り上がっていました。

じゃ、愛知万博は、、、ロボット?マンモスの死骸?何でしたっけ?
ま、難しいことは抜きにしてブラリ、ブラリの万博でした。
愛地球博−2

愛知県と言えば名古屋、名古屋と言えば味噌カツ、これを食べずして万博だけ行ったのでは、愛知県民に対して失礼になります。

そんな訳で会場に向かう前に敬意を表して、名古屋駅前の某デパートのレストラン街で、味噌カツを頂きました。
真っ黒な味噌のかかったカツ、それに赤だしの味噌汁。私はこの両方とも大好きです。

あと、きしめん、名古屋コーチン、それに隠れた名物である喫茶店のモーニングサービスを食べれば、完璧です。
ご飯のお代わりは∞です
じっくりと見て回れます 愛地球博−3

ロシア館、アメリカ館、某自動車メーカー館等は長蛇の列で並ぶ元気がありません。
実は私はロボットも、恐竜も殆ど興味がないのです。

それよりも、あまりよく知らない国のパビリオンをじっくり見て回る方が、いろいろと面白いと思っておりましたので、これを実行しました。

カザフスタン、キルギスタン、モンゴル、ネパールとかの中央アジアの国々、、、なかなか興味深かったです。
愛地球博−4

南太平洋の小国、サモア共和国とか、トンガ共和国、ミクロネシア連邦とかの国々は、幅3mくらいのブースで展示をしておりました。

右の写真はこれらの国々が共同で出している土産物屋です。
南太平洋の国々だけでもじっくり見れば、2時間くらいは楽しめます。

何でみんなあんなにセカセカ早足で見て歩くのだろう?
私は南洋のものは何でも大好きです
アジア諸国のパビリオンが集まっているエリア 愛地球博−5

ゆっくりと各パビリオンを回って、パネルの文字もよく読んで、という事になると1日では無理です。やはり万博会場は広いのです。

大阪万博の時はいろいろな外国の展示物とかを見て、ワーすごいなー、こんな国に行ってみたいなー、と夢を膨らませたのを覚えています。

愛知万博は中学生、高校生もたくさん訪れているそうですが、何を感じたのでしょうか、大いに気になります。
万博は、オジサン・オバサンの物見遊山の対象ではないと思うのですが、、、、、。
故郷で6日間、いろいろとやる事はあったものの、1日は万博にも行ったし割と余裕のある時間を過ごすことができました。日本滞在の間には東京では地震があり、そして台風も東海地方・関東地方を襲いました。東京では人身事故で遅れた電車に乗って、久し振りにすし詰め状態を味わいました。

日本にいる2人の娘にも久し振りに会い、母親・妹そして叔母にも会えました。また昔の同期生にも会いました。その他、一杯友人にも会いました。そして一杯お酒も飲みました。
日本に行くのは殆どの場合が仕事での出張。その合間をぬってプライベートの用事を済ませるのですが、久し振りの休暇での日本。
少しだけリフレッシュできた感じでした。
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