挫折を知らない人達 : 誉めて誉めて、そして誉める |
注意はイケナイ? アメリカに来たばかりの頃、会社のアメリカ人が出張に来たある日本人に対してプレゼンテーションを行いました。 この日本人の出張者はプレゼンテーションが終わった後、その内容についてこうした方がいい、この部分はもっと別な表現にすべきだというような極く普通のコメントのメモを残していったので私はそれをアメリカ人に見せました。 するとそのアメリカ人の(実は2人いたのですが)表情がみるみる変わり、もう何とも言えない情けない表情になってしまったのです。 ちょっと文章では表すのが難しいのですが、落胆x100倍という感じでしょうか。 何故このコメントのメモを見て、こんなにがっかりしたのか、私は一瞬わかりませんでした。 そしてすぐに気が付きました。 何故か?コメントにはそのプレゼンテーションに対しての「誉める」言葉が一つもなかったからなのです。 |
野球の練習 ある時の中学生の野球の練習風景。 私はこちらの少年達の野球の練習風景を見るという機会はなかなかないのですが、その時の事を。 こちらの学校の野球チームは、町の大人のボランティアーが教えるのが一般的です。 これらのボランティアーの大人達は、技術的にはかなり本格的な人が多く、中学生達も本当に真剣に練習をします。 練習風景は日本とは全くと言って良いほど、違います。 先ず、準備体操をやりません。それに列を作ってランニングとかもやりません。何かダラダラと始まります。 やがてバッティングの練習になります。 ピッチャーが投げた球をバッティングするのにボランティアーのコーチが指導をしていきます。 「どこ見て打ってるんだ! コラー! もっと球見て打たんかい!」 「オマエ、やる気あんのか?そんな事やってるからダメなんだよ。」 「腰を入れて−。オラオラ、しっかり!」 まあこんな感じですね、日本は。 私が見た練習風景は次のようでした。 とにかく 「ベリーグッド!」、「ナイス!」、「OK、ファイン!」、これが全ての言葉の最初に出るのです。 イイ当たりを見せると「ナイスミート!」とか、よく理解できませんでしたがいろんな事言います。 球とバットが10cmくらい離れた空振りでも誉めます。 「ナイススイング!!!」 球が当たらない事に対しては一切言いません。スイングを誉めるのです。 そして、時々コーチが手を取って親切に教えて、その後は再び「グッド」の連発です。 中学生達に悲壮感は全くありません。 最後にはみんなを集めて、ボランティアーのコーチが話をします。これは日本と似ているな、と思ったら全く違うのです。 何やら一人ずつ声を掛けて話をしておりますが、実は一人ひとりを誉めているのです。 上手な子に対して誉めるのは問題ありません。下手な子も徹底的に誉めます。 投球力がないレフトを守っていた子には、 「この前は2バウンドでファーストに投げたけど、今日は1バウンドだった。」 盗塁をして失敗した子には 「いいチャレンジをしたね。」 もちろん「走れ、走れ!」とか「行け!行け!」とかは言っていましたが、叱る言葉は最後まで聞く事ができませんでした。 私が理解できなかっただけかも知れませんが。 |
成績表 下の娘はこちらの10年生、これは日本の高校1年生にあたるのですが、の新学期から現地校に転入しました。 1年に2回成績表をもらってきます。成績表には、各科目ごとに評価とコメントが必ず書いてあります。 評価はA,B,C,D,Eと5段階で、それぞれにB+とかA−とかが付く事もあります。 評価に対するコメントを見て、私はいつも考えさせられます。 とにかく、誉め言葉ばかりなのです。Eはいわゆる赤点で落第なのですが、幸い娘はこれは今までもらっておりませんのでどのようなコメントなのかわかりません。 しかしD、つまり超低空飛行でもちゃんと誉めてあるのです。 「SACHIKOの努力は素晴らしく、他の人の見本である。」 とか、 「いついつの小テストは10番だった。」 とか、 「大きな進歩がある。」 とか、とにかく誉める言葉以外書いてないのです。 次の学期はがんばってみましょう、というような暗に結果が良くなかったというような書き方は見た事がありません。 これはどういう事かと言いますと多分、その生徒が得た結果はその生徒の責任において出したものであり、ガンバレというような「激励」をすべきものではない、事なのでしょう。 何をしても全てがこの調子ですから、「こうしなさい」という指導を受ける事が、日本に比べて非常に少ないのではないかと思います。 結論的に言うとアメリカの学校は、その生徒の弱いところ、短所を探してみんなと同じレベル(みんな、という言葉がクセもの!)にするという考え方は殆どなく、その生徒の持つ長所を徹底的に伸ばしてあげるという教育です。 ですから、先生が生徒をムチ打つという事は基本的にはなく、自分で自分をムチ打つ以外にありません。 先生もその生徒が自分で自分の置かれている立場なりを、自覚させるまでの指導はしますが、こうやりなさい、という指示命令を出す事は殆どないようです。 それはダメ!こうしなさい! これが殆どなく、もの心がついた時から誉められるだけ、こんな環境で育った人達が一般的なアメリカ人みたいです。 |
誉める社会とは 「ブタも誉めれば木に登る。」という諺がありますが、やはり人間誉められると今までできなかった事もできるようになるのも事実だと思います。 誉められるというのは、自分のやった事、考えている事が「認められた。」わけですから、自信を持ちます。 つまり、生まれてから誉められっぱなしですから、アメリカ人は自信の固まりです。 オレのやり方は正しい、間違ってない、です。 アメリカ人は、何かに対して「物怖じ」する人が極端に少ない事を、私はアメリカ人と会社で接する中で強く感じております。 いわば、みんな堂々として自信たっぷりです。これは明らかに体格の違いからではなく、内面からきております。 それとみんなと一緒のレベルになったから誉められる、という考え方が全くありませんから、誉められる対象が個人間で違います。 これは絶対評価を意味します。 相対評価ではなく、絶対評価の教育社会、そして個人がみんな何らかの大きな自信を持っている社会。 逆に言うと、何かのプレッシャーには驚くほど弱いのも一般的なアメリカ人の姿でもありますが。 日本人は人と違う事に大きな不安を覚えますが、彼らは人と違う事についてはむしろ誇りを持っているとさえ思える事が度々あります。 では社会はバラバラじゃないか、と思えますが実態は日本以上の秩序をはっきりと感じます。 これは何から来ているかといいますと、恐らく宗教が人が共同社会を営む基本の部分を大きく規正をしているのではと思われます。 この問題はずっと昔から、偉い先生方がいろいろと研究してみえるようなのでじっくりと本でも読んでみようと思っております。 |
私には難しい 「誰々と比べて、オマエというヤツは、、、」 私は子供の頃からどれだけこれを言われて育ってきたか、、。思い出してもゾッとします。 誉められないで育った人間は、基本的に他人を誉める事ができません。 私だけの場合かもしれませんが。 「そんなヘラヘラ笑って、グッド、グッドなんて言えるかい!男は一言、ん、と言えばいいのだ。」 この誉めるというのができるのか、できないかでアメリカ人とうまく接していけるかどうかが決まる、と言っても過言ではありません。 これはアメリカに来てからずっと頭痛の種でもあります。 どうしているかと言いますと、方法はタダ一つ。アメリカ人のマネをするしかありません。 どんな時に、どんな誉め方をするのか、よーく観察するのです。 「この書類、よくできてるね。素晴らしいよ。この辺も分かり易い。一つだけ言わせてもらうとすると、ここを直した方がいいかも。 どう思う?じゃ一緒に考えようか?」 私から見ると殆ど落第に近い報告書の場合でもこんな感じです。 この辺も分かり易い?冗談じゃない、表題の文字がでかくしてあるだけじゃなかいか! もうええ加減にセイ、と言いたくなるような代物の報告書を持ってきてもこの調子。 この誉め方の中で重要なのは、「一つだけ言わせてもらうと、、」という点と、「じゃ一緒に、、」という点です。 この場合、報告書は全部作りなおしになったのですが、一つの項目を切り口に他の部分の矛盾をついていき、 「うーん、君の努力には感謝するが、どうしようか?」 と疑問型で迫り、最後には 「私達の意見も一致したようだから、、、」 と言って、 「来週の末に、もう一度我々で検討しましょう。」 でしめくくっておりました。 「何だ、この内容は!オマエ何年この仕事やってんだ? ここんとこ違うよ、前にも言ったろー。全然わかってないなー。エッー?言い訳は聞きたくないよ。 来週までに作りなおして持ってコイ。」 先のアメリカ人の件、日本人ならさしずめこんな感じですね。 私の会社にもエライ人で典型的な日本人タイプがいて、アメリカ人にこれができないので日本人だけを相手にやっている人がおります。 何故アメリカ人に対してこれができないかって? これをやれば間違いなく裁判になって、間違いなく負けるからです。 |
どちらがイイか? すぐに「どちらがいいか?」と二者択一を迫るのも私の悪い癖ですが、結論から言うとやはり誉める方がいいような気がします。 自分の場合を考えても、誉められた時は本当に気持ちの良いものだし、やる気がグングン出てくるものです。 そう、この自信こそか大切で、これに知恵と知識が備わると非常に強い人、社会が出来上がると思います。 失敗をしても、知恵と知識を駆使して一度やり直す。やり直す時も自信を持って。 アメリカの強さの秘密はいろいろとありますが、その一つは誉める教育、誉める社会にあるのかも知れません。 |