琉球王国・沖縄:12−02
今年の冬は格別に寒く、オハイオにいた時より厳しく感じます。
という事で、2月ほど前に決めていた沖縄旅行、ちょっぴりラッキーなタイミングでした。私の記憶の中の沖縄は30年以上前であり、つまり今回の沖縄旅行は30数年ぶりになります。

今回の沖縄旅行、休みの都合で3泊4日だったのですが、往きのフライトは那覇到着が午後4時、帰りのフライトは那覇発が午前11時と、実質的には中2日しかありませんが、何もそんなに気張ってガツガツとあちこちまわらなくてもいいと思い、ブラリ旅としました。

いつものとおり、いつものツーツケースにポンポンと荷物を詰めて、普段着での気楽ないつもの旅です。
イベント会場

沖縄に行く前にイベント会場に行ってぬいぐるみショーを見ました。

というのはウソで、これはセントレア空港の4Fのレストラン街の横での出来事です。
ですから、ここでワイワイやっている人達は殆どが飛行機に乗る人ではありません。

空港の土産物屋、レストランが閑古鳥が鳴いているので、こういうイベントをやったのでしょうが、人でごった返しており、旅行者としては少々迷惑でした。
ゆいレール(1)

那覇の街は那覇空港から首里城まで、街のど真ん中を立派なモノレールが走っています。
このモノレールを”ゆいレール”と言います。

沖縄には鉄道がなく(戦前はあった)交通手段として車とバスだけだったのですが、ゆいレールは大変便利です。那覇市内と那覇市内周辺を移動するにはこれで十分です。

3日間フリーパスを1400円で買いました。これは使い方によっては大変お得です。
ゆいレール(2)

夕方の4時ちょっとですが、乗客はこんな感じです。
ゆいレールは拡大延長が検討されているようですが、採算性などに問題があり実現は難しそうです。

モノレールは建設費も膨大で、殆どの費用が国の負担で造られるわけですから無理もありません。

ゆいレールからの眺めは大変よく、窓から見える那覇市は私の記憶の中の那覇とは全く異なっており、びっくりです。
那覇の街

昔はもっとゴミゴミしていたと思うのですが、ゆいレールから見える街並みは割とすっきりしています。

一番の違いは走っている車がみんなきれいな事です。(失礼ながら本土と同じ)
昔は塩害で錆びたボロボロの車が多く、初めて行った時はびっくりしたものです。

確かに調べてみると当時の車は塩害対策は殆どやられていなかったので、無理もありません。
DFS

ホテルにチェックインしたのが5時前、中途半端な時間なのでカミさんの要望でDFSに行きます。
娘達から買い物を頼まれているようです。

ゆいレールに乗って”おもろまち駅”まで行きます。
立派な巨大なDFSが駅の前にあります。
中に入るとブランドショップがズラリ、でも客はあまりいません。

採算がとれているとは到底思えません。
液体燃料販売所

DFSの一番奥にはブランドショップとは関係のないお店が並んでいます。
実はここが一番賑やかです。

台湾人らしい団体さんが店の前で休憩しています。買い物するでもないお客に店の前を占領されて、店のオバサンはうんざり顔です。

沖縄の液体燃料と言えば、これは泡盛以外考えられません。街中泡盛で溢れていました。
(というか、私だけが目に入っただけなのかも)
今日の夕食

今夜は”パレットくもじ”というところのレストランで夕食です。
ここはレストランというより”食堂”と言った方がいい、私の好きな雰囲気の店です。

家庭料理風の煮込みで、オリオンビールを飲みながら頂きました。
素朴な味で、盛りも十分で大満足でした。
ホテル横の居酒屋

明るい時はあまりよくわからなかったのですが、暗くなるとあちこちの居酒屋のネオンが一斉に点灯します。

ホテル横の陸橋からぐるっと見渡すだけで10軒くらい目に入ります。
こういうところは観光客相手なのでしょうが、それにしても多い!

今夜は明日に備えてグッと我慢をします。
(何を備えるのだ!)
首里城(1)

2日目は那覇観光の”那覇・南部1日観光”に参加します。ホテルから歩いて10分くらいのところが集合場所でした。

先ず守例門です。ここは30数年間に来ましたが、ナゼか中に入った記憶がありません。
確か工事中だったか何かで、正面で写真撮影をしただけでバスに戻りました。

今日のコースでは中にずっと入ることになっているので大いに楽しみです。
首里城(2)

正殿。この前の広場を御庭(うなー)といい、ここでいろいろな儀式が行われたそうです。

琉球は1600年過ぎに薩摩藩に征服されるまでは独立国であり、明国との関係が強く、薩摩藩の属国になった後も清との親交があったという微妙な立場の国だったようです。

この正殿も含めて全て向きは西になっており、これはすなわち中国に敬意を払っているという意味です、とバスガイドさんが声を大きくして説明していました。
首里城(3)

御庭での儀式のジオラマです。
中央の赤い通路は国王、それに”中国の使節”などの限られた人しかしか歩けなかった、と書かれてありました。

沖縄県の中井知事が日本政府の役人と会うときは必ず中国服に似せたデザインの福を着て、漢文の書を背にします。

やはり彼等の血の中には日本は征服者であるが中国はそうではなく、貢ぎ物を贈って長年うまくやってきた国だったという思いがあるのでしょうか。、
首里城(4)

正殿の中にある、完璧な中国風の非常に立派な玉座です。
中は割と狭く、観光客でごったがえしており、ゆっくりと見学ができず、少々残念!

中山世土(ちゅうざんせいど)とは沖縄は中山が代々治める土地である、という意味で”中国の皇帝”が書いたものだそうです。

つまり中国の皇帝から、そういうお墨付きをもらった、という事です。
首里城(5)

お土産屋さんです。
観光客が多い割には買い物をする人は以上に少なく、さっと見て通り過ぎる人ばかりです。

台湾からの観光客に混じって、韓国人の観光客も結構見られました。
韓国人は他人の肩とぶつかるのを日常とする連中が多く、カミさんも狭いところでバーンと肩をぶつけられてよろけていました。

私は韓国人だとわかった瞬間、肩にグイと力を入れ、衝突に備えるクセがついています。
首里城(6)

歓会門といいます。こういう建築物は沖縄戦で破壊されており、全て再建されたものです。

シーサーは沖縄のどこに行っても見られます。
シーサーは魔除けの意味があり、屋根の上とかのよく見えるところに据えなくてはなりません。

シーサーは雄と雌があり、役割が違うとガイドさんが言っていました。
首里城(7)

歓会門を出たところにきれいな花壇がありました。
みんなこの中に入って写真をパチパチ撮っていました。

台湾人のかなり年配のオバサンがうんとブリッコ・ポーズをとったりして、キャーキャー言って写真を撮っていました。
思わず微笑んでしまいました。

朝にぱらついていた雨も止んで空が明るくなってきました。
首里城(8)

守例門まで戻ってきました。
これから中に入っていく観光客でごったがえしています。
首里城の中はそれほど広くないので、こんなに人がいると見学は大変だと思います。

首里城を見学して思ったのは、自分がいかに沖縄の歴史を知らないか、という事でした。
旅行が終わって帰ったら、いろいろと調べてみようと本気で思いました。
旧海軍司令部壕(1)

太平洋戦争における沖縄戦の海軍部隊の司令部があった地下壕です。
沖縄戦で海軍は小禄飛行場(今の那覇空港)にある航空部隊、その他舟艇特攻部隊で戦い、最後は陸兵として戦闘に参加して散っていったとありました。

沖縄にとって沖縄戦は実に不幸な、永遠に忘れることのできない歴史です。当時の沖縄県民の4人に1人がなくなったのですから。
旧海軍司令部壕(2)

沖縄にとって旧日本海軍の太田実少将は特別な人です。
それはこの人が最期に日本に向かって発信した電報があまりにも有名だからです。

、、、、沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


悲惨な戦闘で多くの沖縄県民が亡くなった事に対しての報告と意見具申です。
旧海軍司令部壕(3)

戦後地下壕から掘り出された品物が展示されています。
これらは食器、それに瓶に入っているものは医薬品とありました。右下には注射器も見えます。

ここは司令部壕なので当初は直接の戦闘員はいなかったのですが、最後にはこの壕の中に数千人の兵士が集まったそうです。
旧海軍司令部壕(4)

山田弘國という高級将校(海軍中佐)の遺書の一部です。

雅弘よ、
父は「バトン」をお前に渡したよ。
父が望んで達する事の出来なかった
更に大なる飛躍こそは
お前以外に誰が襲いで呉れる
ひとがあろうか、、、、
    「爪跡」より
    昭和二十年 海軍壕にて


お父さんからバトンを渡された方はその後どうして、そして今何をしてみえるのでしょうか。
旧海軍司令部壕(5)

司令部地下壕は全部で500m、今はその中の300mが復元され、その一部が公開されています。
壕は全て手彫りで掘られたそうです。

中には司令官室、参謀室、通信室、医務室、兵員室など様々な部屋があり、それらが通路で結ばれています。

これを掘った人達は、その数ヶ月後に全て亡くなったと思うと言葉が出ません。
旧海軍司令部壕(6)

壕に集まった兵士達はこの出口から日夜出撃していったそうですが、出撃していった兵士は誰一人として戻ってこなかったとありました。

アメリカ側の資料(生き残りの日本兵からの聴取資料)によると、海軍部隊は寄せ集めで、陸上戦闘の訓練は殆ど受けていない将兵ばかりだったそうです。

戦うためではなく、死ぬために出撃していったと言えると思います。
旧海軍司令部壕(7)

壕を出たところから南西方向(と思います)の眺めです。
平和な風景が拡がっています。

首里城を埋め尽くしていた台湾人、韓国人などの外国人観光客はナゼかここには一人もいません。
来ているのは僅かな日本人だけです。

ナゼでしょうか、、、。
ひめゆりの塔(1)

糸満市にあります。
ここも南部戦跡巡りで必ず訪れる、あまりにも有名なところです。
30年以上前に来た事があるのですが、このような立派な碑はなかったと記憶しています。

ここは沖縄戦で沖縄陸軍病院第三外科がおかれた壕で、ここには96名の看護要員として動員された学徒、教師の91名が亡くなったという所です。

どういう経緯でなくなったのか、知れば知るほど悲しい出来事です。
ひめゆりの塔(2)

なぜ”ひめゆり”というのか。

それは学徒動員された2つの学校の校誌が乙姫(沖縄県立第一高等女学校)と白百合(沖縄師範学校女子部)を組み合わせて「姫百合」と呼ばれ、それが戦後かなで「ひめゆり」と表現されるようになったそうです。
ですから花の姫百合とは何の関係もありません。

なぜここがかくも有名になったのか、非常に興味深い歴史・経緯があります。
ひめゆりの塔(3)

ここには土産物屋が何軒もあり、この中の一軒で昼食です。
昼食は”沖縄そばとライス”、というなかなかステキな組み合わせです。

そばの汁をすすりながら、漬け物でご飯をガサガサと頂く、何か学生時代に戻ったような食べ方であります。

お腹は一杯になりました。
ひめゆりの塔(4)

有名な沖縄三味線です。
ハブの皮が張られており、和三味線より小振りで、きゃしゃな造りです。
値段は3万円から4万円程度でした。

沖縄はどこに行ってもこの三味線の音色がどこからともなく聞こえています。
あの独特の沖縄民謡のリズムにのった三味線の音、何とも言えない風情です。
ひめゆりの塔(5)

ひめゆりの塔の入り口のほぼ正面の土産物屋です。30年前に来たときはここの土産物屋に入った記憶があります。

ハブとマングースの決闘が人気の見せ物になっていましたが、今は見あたりません。
近くにいた人に聞いたところ、動物愛護団体からのクレームにより、見せ物にできなくなったと言っていました。

ここも外国人観光客の姿は見えませんでした。
平和祈念公園(1)

この地域一帯は沖縄戦最大の激戦地であり、終焉地でもあります。

多くの慰霊施設・慰霊碑・慰霊塔があり、慰霊碑・慰霊塔の数は、主要なものだけでも100以上あると言いますから正直驚きです。

このもの凄い立派な建物は”県平和祈念資料館”です。
ズバリ、何か宗教関係の建物かと思ってしまうような造りです。
平和祈念公園(2)

ここからは太平洋がよく見えます。きれいな青い空の下に太平洋が続いています。

この地域に追いつめられた日本軍と沖縄の人々。
もはや戦争ではなく、米軍による日本人への屠殺であったと聞きます。

ナゼ日本には降伏の考え方がなかったのか、ナゼ玉砕しかできなかったのか。
この思想はどこから来ているのか。
一旦捕虜になった日本兵士は、米軍も驚くほど何でも喋ったという。
これは何を意味するのでしょうか。
平和祈念公園(3)

ここには各県ごとに沖縄での戦没者の名前が刻まれています

実はここから数百メートル離れたところに”三重の塔”というのがあってここには53000柱が祀られています。
そしてその中で沖縄での戦死者は2600人となっています。残りは南方諸地域となっています。

ここに刻まれた名前は三重の塔の2600人と重複しており、三重の塔の残りの約50000万人はここには名前はありません。
同じ場所で奇妙な事が起きています。
平和祈念公園(4)

県平和祈念資料館の中に入ってみました。入ってみて再びびっくりしました。
ものすごいお金を使って造られた施設である事は一目瞭然ですが、誰もおりません!
本当に誰もいないのです。

これは一体どういう事なのか、これは誰が何のために建てたのか、理解できません。
これ以外に100以上の平和何とかという塔とか記念碑が林立する摩文仁地区。

思い当たるフシがないではありません。。
おきなわワールド(1)

正式には”おきなわワールド文化王国・玉泉洞”という長ったらしい名前です。

30年前にはこういうところはありませんでした。
沖縄最大のテーマパークで、琉球王国の下町とか鍾乳洞とか、まるごと沖縄、というところです。

さすがにこういうところは戦跡と違って結構な人が来ています。
集合時間だけ決めてあとは自由行動です。
おきなわワールド(2)

玉泉洞は1967年に全貌が明らかになり、1972年から一般に公開されている鍾乳洞です。

全長は5000mくらいあるそうなのですが、実際に観光用には800mちょっとです。
中はすごい湿気で、気温は多分外気と同じくらい(24℃)だと思うのですが、汗が出てきます。

照明もまあまあで、なかなか迫力があります。
おきなわワールド(3)

玉泉洞を出ると外は爽やかな感じです。
土産物屋がいろいろありますが、まず果物屋があり、その場で食べることができます。

玉泉洞を歩いて、汗を少しかいた跡なので、果物を口に入れたくなります。なかなかいいタイミングで売っています。

でもこのマンゴとか他の果物、箱に書いてある原産地はPERUとなっていました。
南米からの輸入果物です。
おきなわワールド(4)

やはり水分が欲しいということで、ヤシの実の中の水を飲むことにしました。
ヤシの実の中には結構な量の水が入っており、濃くはないのですが、さらっとしたビミョウーな味がします。
1個を買って、カミさんと半部ずつ飲んでみました。

値段はコップ1杯が300円、丸ごと1個が1000円です。
おきなわワールド(4)

シーサーの置物です。
大きさは同じでも随分値段が違います。また店によっても同じ物(にみえる)でも随分違います。
沖縄のお土産としては最適なものの一つです。

私もここで「お財布にやさしい値段」、と書かれたシーサーを一対買いました。

沖縄の家では玄関先とか瓦屋根の上にちょこんと座っている姿を無数に見掛けます。
おきなわワールド(5)

シーサー手作り教室です。ここでは色を自分で塗ってそれを焼いてもらうというサービスです。
時間があれば、こういうところで指導を受けながら自分だけのシーサーを焼き上げるというのも面白いかも知れません。

尚、シーサーの意味は沖縄言葉で”獅子”の事だそうです。
おきなわワールド(6)

泡盛を入れる瓶とぐい飲みです。
このぐい飲みはなかなか見事なデザインです。

泡盛は蒸留酒で製法は14世紀頃にタイから伝えられたそうです。
これを聞いて、ナルホド泡盛の原料がタイ産のインディカ米を用いる背景がわかりました。
おきなわワールド(7)

王朝時代の街並みが再現されています。屋根に瓦を使っていますから庶民の家ではなさそうです。
(庶民が瓦を使ってもよくなったのは明治以降)

これらの家の中は工房になっており、いろいろな伝統工芸を体験することもできます。

ここに来てやっと白人の観光客を見掛けました。
駐留米軍の兵隊ですかね〜。
おきなわワールド(8)

出ました!まむし酒、もとい!、ハブ酒です。
迫力満点です。

ハブ酒は捕まえたハブを1週間くらい水の中に入れておいて、腹の中の糞などを出させ、そしてそのまま泡盛の中にドボンと放り込むそうです。

数ヶ月くらいすれば飲めます。ハブは食べてもいいのですが、普通は泡盛を注ぎ足してハブのエキスを絞り出すそうです。
(食べるのは、素面じゃムリですね、私は、、、。)
おきなわワールド(9)

エイサーです。ここでは1日に4回開催されます。

エイサーはお盆に現世にもどってくる先祖の霊を迎えるための踊りです。

なかな泊力のある踊りですが、このように腰太鼓で激しく踊るのは、ごく最近からだそうで、伝統的な踊りとは全く異なる代物だそうです。

派手な衣装とパフォーマンスで、ショー化してしまったと嘆く人も多いとか。
糸満(1)

3日目は先ず糸満に行ってみる事にしました。
糸満は30年以上前に一瞬だけ住んだ事があるので、どうなっているか見たかったのです。

ゆいレールに乗って赤峰まで行って、そこからバスに乗ります。月曜日の午前中という事もあって、バスには数人しか乗っておりません。

バスはのんびりと331号線を那覇から糸満に向かいます。道路両側の街並みは昔の面影は全くありません。
糸満(2)

昔の記憶を辿ってあちこちで聞きながらやっとたどり着きました。
建物はうんと古くなっていましたが、ありました。

この辺だったかな〜、、、とキョロキョロしていると中年の女性が出てきました。
事情を言うと、気安く話をしてくれました。
Kさんというお名前で、お土産までもらってしまいました。
糸満(3)

糸満漁港です。記憶とあまり変わっていない印象でした。
糸満からは東シナ海、東南アジア方面まで漁に出ており、沖縄の中でも昔から国際的(?)な土地柄だったところです。

この日係留されていた漁船は近海漁の船が殆どで、1隻だけ遠洋漁業もできそうな立派な漁船がありました。
糸満(4)

糸満マーケットにも行ってみました。
規模はやはり小さくなっていましたが、記憶にあったカマボコ屋さんを見つけました。

店の人に話をすると30年以上前からここで商売をやっているそうですが、当時店に立っていた人は午後からしか来ない、と言っていました。

味見用のカマボコを少し頂きました。
素朴な味のするカマボコでした。
糸満(5)

丁度お昼頃になったので那覇に戻る前に糸満マーケット横の食堂に入って昼食を頂きました。

女将さんは気さくな人で、いろいろと話を聞かせて呉れました。
父親はやはり漁船に乗ってあちこちに行って、随分稼ぎがよかったとか、糸満は国際都市とか、とか。

食べたのは私はもちろん沖縄そば、カミさんは沖縄そばで造った焼きそば、超大盛りで、その後にゼンザイまでサービスしてもらい、満腹でした。
糸満(6)

糸満ロータリーです。ここは331号線の目印になっているところで、那覇から来たバスはここを海側に入って市役所の方に向かいます。

糸満の風景は人影も車も少なく、のんびりとしています。
食堂の女将さんが言ってました。
「マンスリーマンションがいっぱいあるから、ゆっくりと滞在したらどうですか?」

何もありませんが、のんびりと過ごすにはよさそうなところです。
那覇に戻りました

糸満から再びバスに乗って那覇の街に戻りました。
赤峰からゆいレールに乗って牧志まで、牧志の市場に行くことにしました。

こうやってゆいレールと高層マンションを見ていると、本当に那覇の街は変わったと思います。

糸満で会った方々と30年以上前の話をすると、糸満の周りも別の土地のように変わったとしみじみと言ってみえました。
昔のイメージ

かつてはこういう雰囲気の家が多かったと記憶しています。
那覇の国際通りから脇道に入って探すと、こういう家がまだ結構ありました。

表通りはうんと変わりましたが、裏通りは昔の面影を残しており、何だかほっとしました。
牧志公設市場

牧志駅を降りて12〜3分ほど歩くと牧志公設市場があります。
ここは魚介類、肉、総菜加工品などのあらゆる食材が売られており、見ていても楽しいところです。

南の島の市場らしく、名前の知らない色鮮やかな魚なんかが並べられております。
お買い物

カミさんは事前にいろいろ調べてあった細々としたものを買っていました。
これはサーターアンダギーと呼ばれる沖縄ドーナッツです。
沖縄の定番のおやつです。

私も泡盛をお土産に買おうかと思いましたが、泡盛はやはり沖縄で飲まなくては意味がないと思い、わざと買いませんでした。
泡盛を飲みにまた沖縄に来る、これもいいではありませんか。
日本最南端の駅、赤峰駅

糸満に行くときに降りた駅ですが、写真を取り忘れたので再度行ってみました。
駅の南側にモニュメントがありました。
見ていると時々観光客が来て、シャッターを押していました。

こういう場合、乗り放題チケットというのは本当に便利なものです。
この3日間で何回ゆいレールに乗った事でしょうか。
3泊目のホテル

2日目の夕方、街をぶらついているとダイワ・ロイネットホテルが目に入りました。
このホテル、先日和歌山に出張で行った時に泊まり、大いに気に入っていたのでそれまで停まったホテルをキャンセルして3泊目だけここに移りました。

値段もリーズナブルで部屋も広く、大変快適なホテルでした。
沖縄そば

4日目の朝、ホテルをチェックアウトして空港まで。
フライトは11:00テイクオフ。
おっ、まだ時間があるな、という事で朝飯を食べたにもかかわらず、レストランに飛び込んで沖縄そばを一杯。

さらに土産物屋でインスタントの沖縄そばをお土産に買いました。
沖縄そば、大好きです。
那覇空港

ある方から、JALに乗るなら是非Jシートにするといい、と言われていたのでカウンターで空きを聞くと空いているとのこと。

さっそく1000円を払ってJシートにアップグレードしました。
2時間のフライトですから普通席でもいいのですが、Jシートはゆったりとしてなかなか快適でした。
1000円の価値は十分にあります。
ひとまずさようなら

2月の沖縄はそんなに暖かくない、という事で厚手のセーターとかジャンパーまで持って行きました。

ところが日中は24℃まで気温が上がり、シャツ1枚で十分。
スーツケースの半分近くを占めたこれらの衣類は全く使うことなく、そのまま帰ってきました。

今回の旅は30年以上前の沖縄のイメージのギャップを埋めてくれました。

さて、今度はいつ行くかな〜、、、、。
沖縄を旅行して感じた事の一つに、自分がいかに沖縄の事を知らないか、という事でした。
沖縄の事とは、沖縄の歴史です。少し勉強をしてみようと思いました。

3泊4日の短い沖縄旅行でしたが、1日観光以外はスケジュールを特に決めず、のんびりと過ごすことができました。
糸満ではいろいろな人に親切にして頂きました。やはり沖縄の人は、何とはなしに素朴で暖かみを感じました。

糸満の食堂の女将さんが言ったように、今度はウイークリィーマンションにでも入って長期滞在してみるか、そんな気にさせた沖縄旅行でした。
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