高校2年生での現地校編入 |
高校への編入 私のアメリカへの赴任の1年後、カミさんと下の娘がこちらに来る事になりました。 上の娘は大学の受験に失敗、浪人をする事に決めたのですが、カミさんと下の娘が更に日本に残ると、今度は下の娘をアメリカに連れてくるのが難しくなってしまい、結局私はずっと単身赴任になってしまうという最悪のパターンが予測されたからです。 下の娘はアメリカには来たくなかったようでした。娘は既に高校1年を日本で過ごし、高校2年になっておりました。 友達もいっぱいいる中、訳のわからない国の高校に行くのを嫌がるのは当然の事でした。 私は16才の日本の高校2年生がアメリカの現地校に入学した場合、どのような事になるのか想像ができないので、いろいろと調べてみる事にしました。 現地校に入って順応できるのはせいぜい中学1年生まで、小学校の高学年でも難しい、という人がおりました。 同じように高校1年生でこちらに連れてきて半年でノイローゼになった子供の話、高校に行って卒業はしたものの、日本に帰り大学に行くでもなし、就職するでもなし、ブラブラしている息子の話、いい話は一つもありませんでした。 日本で英語がずば抜けて良くできた女の子が高校1年を終了して現地校に入り、登校1日目でその自分の英語が全く通じない事にショックを受け、半年でノイローゼになって帰国してしまった女の子の話は気になりました。 それを話してくれた人曰く、「英語はなまじ自信があると障害になる。だから自信がないほうがイイ。」 これを聞いて何となく安心をしたりしておりました。 それとこちらの学校の大きな特徴として、中学生までは子供の世界だが高校生はもう大人の世界で、異国人が溶け込むのは中学生に比べて格段に難しいという点も気になりました。 |
英語の準備 娘はアメリカに来る前に日本で、いわゆる「英会話教室」に数カ月間行っておりましたがこんなもので英語力が身に付くほど世の中甘くありません。 娘がアメリカに来たのは97年5月、高校2年になったばかり、こちらの学校の夏休みの直前でした。 新学期は9月から。 この長い3カ月を新学期に備えてどう過ごせばいいのか、これは大きな問題でした。 そこでコロンバスコミュニティーカレッジの先生に相談したところ、語学の研修を受けた方がよい、とのアドバイスをくれました。 至極当然のアドバイスでしたが、この先生の違うところはきちんと学校とその連絡先も教えてくれた点でした。 語学研修は普通、大学のサマークラスが一番いいのですが、州立のオハイオ大は16才の娘を受け入れてくれず、この先生は、ある私立大のサマークラスを紹介してくれたのでした。 私はその連絡先である、インターナショナルオフィスにていねいな手紙を書きました。 学校に行って見学をしたい、16才の娘に英語の授業を受けさせたい、もし適当なパートナーがいるなら紹介をして欲しい、etc。 これが娘が来る半年前の事です。 指定された2月のある日、私はこの大学のインターナショナルオフィスを尋ねました。オフィスに行くと、3人の東洋人の学生、それと責任者のK女史、それに白人の学生の5人が待ってくれておりました。全員女性です。 K女史に挨拶をすると、3人の東洋人の学生を紹介してくれました。2人は日本人、もう一人は中国人でしたが彼女は日本生まれの日本育ちで日本語はペラペラ。 K女史が予め留学生であるこれらの学生を集めておいてくれたのです。 私は学校の中を案内してもらい、いろりろな質問をしました。特にYさんは親切にいろいろと教えてくれ、もし入学するなら私がパートナーになります、と言ってくれました。大変聡明そうな学生さんで、感じもいいし、私は大いに安心をしました。 入学手続きの書類、その他カリキュラムの分厚い案内書等をもらい帰って検討をする事にしました。 この大学は日本のO大学と姉妹校提携しており、夏休みには日本から短期留学と称して何十人もの学生が来る事がわかったので、私は少し心配になりました。 というのは、これら短期留学の日本人は実質的に勉強ではなく、半ば遊びで来る学生が多いからです。 この事をK女史に話すと、彼女はにっこり笑って、お嬢さんはこの日本人の短期留学の学生とは全く関係のないクラスですよ、と言ってくれました。 彼女もこのへんの事はよーく判っているのでした。 |
D大学での2カ月間 カミさんと下の娘がコロンバスに降り立って2週間後、娘は英語の勉強のためにD大学の寮に入る事になりました。 異国に来て直ぐに、しかも16才でアメリカの大学の寮で2カ月間の生活が始まったのです。 寮のルームメイトは黒人の学生。 クラスには英語を母国語としない、南米からの人、ヨーロッパからの人、それに中国、韓国の学生等がおりました。 娘は最年少で、しかも英語のレベルも最低に近かったようでした。 私はこのように雑多な人種の中で、しかも16才で寮生活と勉強をさせる事に不安がありましたし、当初は家から通学させようとも考えました。 家から学校まで車で25分、距離にして35kmくらいの所だったからです。 しかし、カミさんはまだ運転に慣れていなかったので送迎は無理、それにとにかく英語漬けにして早く言葉に慣れて欲しかったので、あえて寮に入れました。 寮にいれば普段の生活も英語を使わざるを得ないからです。 授業は10ー15人くらいで行われたようですが、随分とイヤな事も多かったようです。 特に中国人と韓国人の生徒は日本人である娘に対して、事あるごとに陰惨なイジメを繰り返したと言っておりました。 これは高校に行っても、数人いた韓国人も同じで状況であったようです。 当初娘はその理由が判らずに悩み、改めて外国に出てきた事を実感し、そしてそれがどういう背景からそうなっているのか、理解をして乗り越える術を見つけたのです。 6月の初旬から8月の初旬まで9週間のサマークラスは、何とか終わる事ができました。ものすごいカルチャーショックと、自分の英語力のなさの自覚、強烈な印象の2カ月だったと言っておりました。 |
何年生に編入か? 地元の高校編入ではどの学年に編入するのか、これが先ず第一の問題でした。 日本で高校1年生を終了しているという事は、こちらの10年生を終了している訳で、編入は11年生(日本の高校2年生に相当)が普通です。 しかし英語力、その他の事を考え10年生への編入を希望する事になりました。ここの高校は6・2・4制なので高校の2年目という訳です。 編入に当たっては、日本で学んできた単位を認めるという方針が取られ、これの証明を日本からもらう事にしました。 つまり日本の中学3年生と、高校1年生で何を何時間学んで、どのような成績だったかの証明を発行してもらうのです。 11年生ではなく、10年生への編入は学校に行った時にカウンセラーと少しもめましたが、英語力がかなり劣るので、何とか10年生へ編入させてくれないか、頼み込みました。 これらの交渉は私が学校に行ってやりましたが、こちらの先生達は理由を明確に言えば比較的あっさりと認めてくれるのに少し驚きました。 問題は日本側の履修証明の発行でした。 証明は数学:150時間、評価:5段階評価4、ではダメなのです。 数学の何をやったのか、そのレベルはどのレベルなのかを詳しく表現し、更にそれを何時間やったのか、評価はどうだったのかを記載しなくてはならないのです。 娘の中学の担任の先生にこれを説明した手紙を出したところ、そんなものは書けないという返事でした。 私は教育要綱に書いてある内容に従って作成をして欲しいと更に手紙を出したところ、それもできないと返事が返ってきました。 更に、証明を英語で作って欲しいとあるが、本校には英語の証明の発行様式はない、とも書かれておりました。 そこで私はこちらでヒナ型を作成するから、これを参考に作って欲しいと再度手紙を出しました。 会社で教員の経験のある部下に、これこれの証明を日本に要求したいのでサンプルを作ってくれない?と頼んだところ、翌日にきれいにワープロで作ってくれて持ってきました。 彼女曰く、「15ー6才の生徒が勉強する内容って、日本でも同じでしょ。」 随分立派なヒナ型でした。 これを日本の先生のところに送ったところ、殆どそのままの内容で、評価だけをそれぞれにつけ加え、校長先生のサインを入れて送り返してくれました。 ちなみにこの担任の先生は英語の先生でした。 高校の方にも同様の依頼をしましたが、こちらの方は一発でほぼ完璧な英語での証明を送ってくれました。 但し、校長先生のサインは日本語でしたケド。 この証明を見せた時もカウンセラーと少しもめました。 こんなに一杯勉強してきたのなら12年生編入で、10年生編入なんてとんでもない、なんて言い出したのです。 マ、マ、マ、私はそのカウンセラーの先生をなだめるのに苦労しました。 |
通学開始 娘の高校は私達の家から1.5kmくらい。 日本なら徒歩で通学ですがここはアメリカ、スクールバスでの通学です。 私の家のコートにバスが来るのが朝の7時。スクールバスはあちこち廻って学校に着くのが7時40分。 日本に比べて随分早いのですが、こちらのスクールバスは先ず高校生を送って、次に中学生、最後に小学生の順なので高校生はどうしても朝早くなります。 学校の時間割は自分で決めます。必修科目が半分くらい、後は選択です。 必修科目の例えば「生物」でも3クラスあり、この違いは授業の内容のレベルなのです。ですから自分がうんと勉強したければ上のクラスを取ればいいし、あまり勉強したくなければ下のクラスを取ればいいのです。 全体的に見て、学習の内容は日本に比べて1ー2年遅れている感じで、特に数学は2年以上遅れています。 ですから娘は初っぱなから、数学は評価AAをもらっておりました。 しかし、アメリカ史なんていう科目になるとこれはもう悲惨で、随分苦労しておりました。 こちらの高校は時間ごとに生徒が教室を動く方式で、しかも休み時間が5分しかありません。1時限も90分でかなり密度は濃いようです。 昼食もこの90分の1時限になっており、従って昼食もバラバラです。 ある生徒は3時限目を昼食に当てたり、ある生徒は2時限目にしたりという具合です。 飛び級、繰り上げ卒業ありで、17才くらいで卒業してい生徒もおります。 要するに勉強したい生徒はいくらでも勉強できるし、そうでない生徒はそれでも卒業できるのです。いえ正確にいうと「できた。」のです。 |
卒業検定試験 アメリカの教育は「個人重視」と「市の運営」により、ばらつきがあまりにも大きく、これに危機感を持った連邦政府が、教育の質の向上をはかるべく高校生に対して、何年か前から高校卒業検定試験を行うように義務付け、これにパスしないと「卒業」を認めないというようになりました。 ではパスしない生徒はどのように扱われるのかといいますと「高校終了」で、卒業証書はもらえません。 今のアメリカの高校生の「高校終了」生は30%くらいいるそうです。 これは州によって少し運用が違いますが、オハイオは2001年までは数学、英語の書き方、英語の読み方、社会の4科目で、2002年からこれに理科(物理/生物/科学)が加わります。 これらの科目の全てをパスしなくてはなりませんが、これは9年生(高校1年生)から受験する事ができます。 試験は年2回で娘は6回の受験チャンスがありました。 編入したその2カ月後が最初の試験でしたが、まさかまだ何が何だかわからない状況でこれを受ける訳にも行かず、97年9月に編入した翌年の4月に初めて受験をしました。 結果、数学とリーディング(英語の読み方)に合格。数学はともかくリーディングには驚きました。その後、ライティングにも11年生の時に合格しましたが、社会がどうしても合格できません。 社会とはアメリカの政治経済、それにアメリカ史です。 私なんか教科書見てもわからない単語ばかりで、絶対に理解できない科目です。 11年生が終わり(99年6月)、夏休みに卒業試験の補修があるという話を娘が持ってきたので、社会の補習を受ける事になりました。 そのパンフレットを良く読むと、補修は毎年やっていたのですが、知らなかっただけでした。 だって学校からの連絡は全て郵便で届き、日本のように学校で生徒に渡して家に持ってくるという方法ではなく、他の一杯ある郵便物に紛れてしまい、つい捨ててしまったのかも知れません。 おまけに英語だし。(当然か。) 高校は義務教育なのですが、夏休みの補習は有料(!)で確か$100くらい払ったと思います。 補習は卒業検定試験以外に、普通の科目でも行われており、これに出席すると単位が認められて繰り上げ卒業につながります。 ですから夏休みの間、ずっと学校に行って勉強する生徒もいますし、私の娘のようにずっと休む生徒もおります。(11年生の休みは補習を受けましたが。) 勉強したい生徒には目一杯の機会を与える、という方針がこの辺にもうかがえます。 (でも有料です。この辺もアメリカらしい。) とにかく、多分この補習のお陰で娘は最後の社会にも合格する事ができ、アメリカの高校「卒業」の大きな壁を越える事ができました。 |
繰り上げ卒業 娘は日本での中学3年生(こちらの高校1年生)にやった勉強、日本での高校1年生(こちらの高校2年生)にやった勉強の単位を、アメリカの高校が殆ど認めてくれたのと、編入を1学年落とした結果、最終学年である12年生(高校4年生)の前期で卒業をする事ができました。 日本の友達から離れての最初の1年間は本当に辛い、そして苦しい時だったと思います。2年目も苦しかった。 3年目になって友達もあちこちにできて、明るさを取り戻してきました。 この間、日本の高校の担任の先生は日本の高校は退学ではなく、休学にしておく事を勧めてくれ、その手続きもやってくれました。 アメリカでの2年を日本での1年と認める制度があり、アメリカで2年がんばり、仮に卒業できなくても日本に戻って、これに半年の出席があれば日本の高校卒業の資格を与えるとの事でした。 つまり、(通学した1年間+アメリカでの2年間+帰国後の半年の通学)で、日本の元の高校の卒業資格は取れるという事でした。 これも必要なくなりました。 更に00年1月に受験した日本の大学にも合格し、波瀾万丈の高校生活にピリオドを打つことになりました。 本当に色々な事がありました。特に最初の1年間は正直言って、地獄のような高校生活だったのは間違いありません。 でもいつかきっとこの経験は役に立つと思います。 それと色々な人に直接、間接的にお世話になった事を忘れてはいけません。 D大学で世話をしてくれた方、こちらの学校の先生、友達、家庭教師、ホームステイをさせてくれた家族、駐在員仲間の家族、日本の先生、友達、本当にありがとうございました。 |