16−07−23 祖国の英霊
フィリピンに来て他の会社の駐在員に、「この近辺の観光地でいいところはありますか」、と尋ねるとマニラ地区のサンチアゴ砦とか、マニラ大聖堂とかそいうところを教えてくれます。

実はフィリピンで観光対象になっているのはその殆どがスペインの植民地時代のものばかりで、それ以外の名所というのは割と少ないと思います。

そういう場所の他は、「コレヒドールの1日観光」、を勧める方も結構みえます。

コレヒドールか〜、かつて日本軍が難攻不落のコレヒドール要塞を攻めて占領したものの、昭和20年に再度アメリカに占領された要塞の島です。

コレヒドールはマッカーサーがフィリピン守備隊の司令部をおいて日本軍に抵抗したところです。

ところが日本軍の猛攻に、「アイシャルリターン」の言葉を残して何万人の部下を残してオーストラリアに脱出(”司令官の敵前逃亡”、というのが一般的な見方)したので、再侵攻では徹底的にこだわったところだそうです。

島内は当時の要塞がそのままが残されており、日本軍をこんなふうに壊滅させて、という色合いで全てが説明されているそうです。
ま、いつかは行ってみるつもりですケド。

それより私は気になるのがフィリピンで最後まで戦いの指揮をとって終戦で捕虜、連合国の報復裁判で絞首刑になった山下奉文大将の墓、同じく報復裁判で絞首刑になった本間雅晴中将の墓です。

フィリピン全土では日本人将兵が40万人(!)、フィリピン人は100万人以上が亡くなっています。

日本人将兵戦死40万人のうち半数の20万人はここルソン島なのです。
実際の主戦場は島の北部からマニラまでの地域で、島の地図を詳しく見ると戦記・戦史に出てくる地名がいくつもあります。バギオ、ベンゲット、アパリ、、、。

どういうところなのかバギオまではここから7時間程度で行けるようなので、連休を利用していつか行ってみるつもりです。
この日、10:00にコンドミアムに迎えに来た運転手のサミー君に、「今日はロスバノスに行く。地図はこのとおり。」、と言うことで予めネットで調べた場所を印刷して渡しました。

彼は、「どうして今日はこんなところに行くのですか」、と質問してきます。
仕事であちこちに行く時は一切質問はしない、というのがルールなのですが土日はプライベートな行動なので別です。

ロスバノスにはアメリカ軍と戦った日本軍の司令官、山下将軍の墓があるので行きたい、etc.を説明しました。

するとサミーは今年3月に96才で亡くなった祖母の話を少ししてくれました。
彼はバギオ近くの出身なので、祖母は戦争について時々話したようでした。

印刷した地図とスマートフォンのGPSで近くまで行けたのですが、どうしてもお墓があるとは思えない場所です。
困った、、、。

そこでサミーが小さな売店に入ってそのこの店員に聞いてくれました。30才(実際はもっと若いかも知れません)くらいの女性店員が出てきて詳しく教えてくれました。
墓は通りを入った奥の細道の突き当たりにありました。

私ひとりではちょっと入っていけないようなフィリピン人の長屋が建ち並ぶ奥に、山下大将の墓はひっそりとありました。

周囲は草が生い茂ってはいますが、最低限の手入れはされているのでしょう、墓石の周りは一応きれいになっていました。
子どもが墓の周りで遊んでいます。

しばらくするとサミーがこの墓の掃除をしているという40才くらいの男を連れて来ました。

私は、「お詣りをしたいので花が必要だ。買ってきてくれないか。」、と頼みました。

すると彼は、「花は遠くまで行かないと売っていない、でもここにある花でいいのではないですか」と墓のにあった赤い花をナタで切り落として渡してくれました。

私はこれを墓石のに置き、流れ出る汗を拭いて合掌をしました。
墓参りを終えたあとこの男に、「これからも墓の掃除を頼みます」、と言って志を渡しました。

帰ろうとするとこのフィリピン人が、「本間将軍の墓も行くのでしょう?それはこっちの方です」、と言ってサミーに行き方を教えてくれました。
本間雅晴中将の墓は山下大将の墓からほんの近くでした。
でも墓は私有地の中です。
サミーが近くにいた少年に門の扉を開けるよう頼むと、少年はどこかに走って行き土地の所有者の奥さんらしき人を連れてきました。

私は日本人でジェネラル・ホンマの墓に行きたいと言うとその女性はその子に墓まで案内をするように言いつけたようでした。
私とサミーはその子の後をついて谷を下っていくとやがて大きな円形の墓標がジャングルの入り口付近に見えました。

ここも最低限の清掃はしてあるという感じでしたが決してきれいとは言えない状態でした。
ここにはお供えをする花も何もありません。私は合掌をして英霊に気持を伝えました。
サミーとその少年は少し離れた日陰から汗を拭きながら私の姿をじっと見ておりました。

お墓参りが済んだので再び緩やかな坂を上がって少年に先程の奥さんを呼んでくるように頼みました。奥さんが現れたので私は寸志を渡しました。

奥さんとサミーはタガログ語で何やら話を始めました。
サミーによると毎年8月15日には日本からお詣りに人がやってくる、今年はバス3台で来ると聞いている、という話でした。

車に乗って帰ろうとしたのですがこの話が気になり、8月15日は私も来よう、とサミーに言うとサミーは急に運転席から出て行きました。
しばらくして戻って来て言うには、「先程の夫人に私の携帯電話の番号を教えました。8月15日のバスが来る時間がわかったら私に電話をくれるように頼んでおきました」、という事でした。

サミーは私の車のドライバーですが、運転以外にこういうところもよく気が利いていろいろとやってくれるのです。

8月15日はどんな日本人がどこから来るのか知りません。
でも私はこれらの人に混じってこのフィリピンで非業の死を遂げた2人の将軍と40万人の日本人の霊を弔う事ができるかも知れません。

私の住むグローバルシティーの隣のマカティーには、広大な土地にアメリカ兵17000人の記念墓地があります。
緑の芝生が敷き詰められた広大な敷地です。

17000本の十字架とその隣には全戦死者の氏名、階級、出身州が刻まれた見事なウオールがあります。

この記念墓地内の整備状態は完全なアメリカです。ゴミ一つない広大な記念墓地、見事としか言いようがありません。
ワシントンDCにあるアーリントン墓地と同じレベルです。

これに比べたらこの日に墓参した2人の将軍の墓地は余りにも惨めです。
日本人観光客でアメリカ兵の記念墓地に来る人はあっても日本人の墓地に来る人は皆無でしょう。
モンテンルパにも日本人の墓地があります。ここに来る人もいないでしょう。

40万人の御英霊は何と思ってみえるのか、、、。
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