15−06−12 水銀の富
東海地方もとうとう梅雨入りしたという発表がありました。
私は寒い冬は嫌い、暑い夏も嫌い、そして何よりも暑さと湿気が重なる梅雨ほど嫌いな季節はありません。

これを考えると1年12ヶ月のうち快適に過ごせるのは4〜5ヶ月弱しかない事になります。

ところが春の2ヶ月間は黄砂などで空気が汚れているので結局年間では2〜3ヶ月っくらいしか快適に過ごせる時がありません。

子どもの頃と比べると日本は何だか住みにくい気候になりつつある、という感じがしますがいかがでしょう。

さて今月も会社のOB会の"あるこう会"がありました。今月は松阪市の南西にある多気郡多気町の"紫陽花(あじさい)の立梅用水"です。

この"立梅"という字、"たちうめ"又は、"りつばい"とでも読むのかと思っていたら"たちばい"、と読むそうです。典型的な湯桶読みですね。

鈴鹿から立梅用水まではバスで1時間半弱、出発はいつもより1時間遅く09:00です。
天気予報では午前中は小雨・曇ですが、昼頃からは晴れとの事、梅雨時のこういう催しにしては恵まれました。

参加者はいつもより少なく140名でバスは3台、歩く距離も平坦道を6km、いつもより何もかもコンパクト(?)です。

バスは丹生大師近くの駐車場に到着、ここがスタート地点でかつゴール地点でもあります。

この"丹生"という字、"にう"、と読むそうです。今回はややこしい読み方の地名ばかりです。

立梅は"りつばい"ではなく"タチバイ"、丹生は"にぶ"でも"たんじょう"でもなく、"ニウ"、紫陽花はなんでこう読むのか"アジサイ"、、、ややこしい〜。

今回の特徴はこのエリアの案内をしてくれる"昭和の語り部"、という地元の4人の方が案内をしてくれる事です。
"昭和の語り部"、とは皆さんナゼそういう名前を付けたのか理由は聞きませんでしたが、ひとつだけ明らかなのは4人の方々は全員昭和生まれ、しかも昭和のうんと早い時期のお生まれの方々とお見受けした事でした。
三重県は江戸時代は松坂の南西から紀伊半島は全て紀州藩領でした。
私の生まれた松坂は紀州藩領、それに今住んでいる鈴鹿も白子領という事で紀州藩領です。

こうやってみると伊勢の国というのは江戸時代はややこしい領地になっていたのですね。
ある先生がこういう事を詳しく調べているみたいなので今度教えてもらいます。

さて今日のコースは殆どが舗装道路です。コースは立梅用水に沿って歩きます。
この用水路は200年以上前に西村彦左衛門という人が紀州藩に陳情、農民のために用水路を作ったそうです。
3年、13万両(現在価値で130億円くらい?)、延べ25万人の人夫を掛けたそうです。

江戸時代後期に完成後明治・大正・昭和になってからも何度か災害に遭い、20年前に今の3方コンクリートの用水路になったそうです。
その後"町興し"の一環として用水路沿いに紫陽花を植えて地域の活性化をした、という事でした。

この日歩いた道沿いには白、ピンク、水色の紫陽花が咲いていて、なかなかの風情でした。

歩き始めて1時間くらい経ったところ予報通り曇り空から晴れ模様になって汗が噴き出てきました。
リュックの中には昼食のおにぎり6個とおかず、それに水筒2本、その他のものが入っていて軽いという訳ではありません。

途中で道を間違えて他の人たちより1km余計に歩いたりしたのでお弁当を食べるために立ち寄らせてもらった西村彦左衛門公園に着いた時は大汗でびっしょりになっていました。

コースの後半は家並みの中を歩きました。
ここは立派な寺が多くあり、どうしてこんな三重県の山奥に1000年以上前から多くの寺があるのか不思議です。

つまりこの地域はかなり裕福だったのです。ナゼか?

答えはここは昔から最近まで水銀の産出地だった事によります。

"丹生水銀"という事で古くから非常に有名だそうですが、私は水銀鉱山が三重県のここにあったというのは知りませんでした。

この水銀によって地域は大昔から裕福で、それはあちこちの古文書にもはっきりと書かれているそうです。
鉱山の跡などは今も残っており、コースの途中で入り口をみる事ができました。

水銀はメッキとかの用途以外に白粉なども作られ、これは化粧品以外に薬用としても用いられたという訳ですから驚きです。江戸時代の白粉は鉛が含まれているものもあり、昔の女性は毒を顔に塗っていた事になるのですね。
この日は私が生まれた松坂市から20Kmしか離れていない多気郡多気町の立梅用水へのあるこう会でしたが、興味深い歴史がある事がわかりました。

200年前に作られた用水路、、古代から中世の江戸時代前に建てられた立派な寺社、そしてこの地域の富の源であった水銀鉱山、どれもロマンを掻き立てるものばかりです。

コースのスタート・ゴール付近の疎らな町並みはどれもキチンとした大きな家ばかりです。余裕のある人が多く住んでいるのは一目瞭然です。

しかし不思議だったのどこを歩いても町の人を見ない事でした。何台かの車には出会いました。
でも人影を見ないのです。

ここから伊勢市・松坂市までは20kmちょっとですから多くは勤め人なのかも知れませんが誰も歩いていません。

山間なので農地は少なく、農家風の家はあまり見掛けませんでした。店屋も殆どありません。

日本は子ども急速に減って老人国になっています。
昔であれば小さな子ども声か姿が見えた事でしょう。そういう子も全く見ませんでした。
あと50年したらどういう町になっているのか、、、。

私が心配をしてもどうしようもない事ですがちょっとだけ気になりました。

三重県多気郡多気町への”あるこう会”のイベント、この日は三重県の新たな発見の日でした。
歩いた歩数は1万2千歩、距離は7Kmといつもよりかなり少なく、16:00には鈴鹿サーキットの駐車場に帰ってくる事ができました。
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