15−01−19 西への旅
広島県呉市、島根県浜田市、普段は全くと言っていいほど縁のないところ、今回はある用件があって行ってきました。
最初の計画では呉市に2泊だけの予定でしたが急遽浜田市に行く必要が出て結局4泊5日の旅になってしまいました。

呉市では時間の余裕があったので市内を少し見学をしてきました。浜田市では意外と余裕がなく、結局はどこも見学をする事ができませんでした。
電車、バスの窓からは漁港が見え、静かな田舎都市という雰囲気が漂っていました。

呉は造船を中心とする工業都市ですがかつては日本海軍の基地のあったところで、今でもその一部を海上自衛隊が使っています。平日の市内は人通りも少ない典型的な地方都市の香りがしました。

以下は今回の呉と浜田の旅でのスナップショットです。。
岡山駅で乗り換えです

名古屋から”ひかり”に乗って三原である人に会うために岡山で”こだま”に乗り換えて三原に向かいます。

お昼前だったので岡山駅で弁当を買い、それを食べてしばらくすると三原です。
岡山から50分です。

”こだま”は6号車、乗っていた乗客は全部で8名(!)でした。、
三原

新幹線三原駅というのは小さな駅です。
Hさんは駅を出たところの駐車場の車の中で待っていてくれました。
Hさんとは2時間ほどの予定でしたが、結局4時間近く話をしてしまいました。

三原から呉までは呉線で1時間半以上もかかり呉のホテルに着いたのは20:00過ぎ。

荷物を置いてホテル近くの居酒屋で一杯。
知らない土地の居酒屋で本を読みながらひとりチビチビやるのが私は好きです。
てつのくじら館(1)

実物の潜水艦を陸上展示する博物館が呉にはあります。
場所は呉駅の南側で泊まったホテルから歩いて5分くらいのところでした。

道路の横にドーンと除籍された本物の潜水艦(あきしお)が陸揚げされています。
横の建物は3階建ての海上自衛隊の歴史他の資料館です。
入場・見学は無料です。
てつのくじら館(2)

潜水艦あきしおは中の一部を見学する事ができます。

潜水艦の艦内というのは機械と機械のわずかな隙間に人間が居住する、という表現が適切です。
ベッドは3段、ちょっと寝させてもらいましたが、鼻の上20cmが上のベッドになりました。

退職した自衛官があちこちにいて説明をしてくれます。
てつのくじら館(3)

旧日本海軍の潜水艦に装備されていた巨大な双眼鏡です。
浮上中はこれで見張りをしていたそうで、対物レンズを見ると15cmでした。
横に同じくアメリカ海軍の見張り用の双眼鏡がありましたが、日本製に比べるとオモチャのように見えました。

日本の光学兵器は世界一だったそうです。
大和ミュージアム(1)

かつて世界一の戦艦であった”大和”、これは呉海軍工廠で建造されたのですが、この大和と呉海軍工廠、それに呉の歴史などを展示しています。

圧巻は極めて忠実に再現された10分の1の戦艦大和です。
写真の上の方に人が見えますがこの模型の大きさがよくわかります。
大和ミュージアム(2)

大和は前代未聞の複雑な構造であり、この建造を通じて多くの新技術が生み出されたそうです。

1/10のサイズの大和は巨大で、素人目にも驚く程精密にできています。
昭和20年4月に沖縄に向けて最後の出撃をした時の大和の上甲板は対空機銃で埋め尽くされています。
大和ミュージアム(3)

戦艦大和の存在意義は何であったか、それは46cmの大砲9門を運ぶ事であった、と言えるでしょう。

この大砲は射程40km、つまり砲弾を撃ち込むためには目標の40km以内に近づかなければならなかった、という事です。

大和は進水してから撃沈されるまで4年ちょっと、実に短いはかない命でした。
 
大和ミュージアム(4)

大和は3300人の乗組員にて最後の出撃をして、生き残った人は約300名だったとありました。
そしてこの3300名の名簿が県ごと掲げてありました。

これを見ると乗組員の90%は関西人で、その70%以上が愛知、三重、大阪、和歌山、京都、兵庫出身者で占められていました。

三重出身者の乗組員は約200名、何名の方が生き残ったのでしょうか。
大和ミュージアム(5)

呉海軍工廠は明治22年に設置、昭和20年に閉鎖されるまでの56年間で133隻の主要艦艇を建造したそうです。

133隻は太平洋戦争が終わった時点で一体何隻が残っていたのでしょうか。

戦争とは途方もない富と資源を浪費し、そして人命を奪う、この事実を我々国民はしっかりと肝に銘じなければならないと思います。
広島焼き

広島に来てこれを食べないで帰ったらどやされます。
今回は時間がなかったのでショッピングモールのフードコートで食べました。
”特大のタコ焼き3個付き、大盛り”、というのを頼んだら夕方までお腹がもたれました。

でも周りをみると結構小柄なオバサンもこれを食べていましたので、広島の人は”広島焼き”に関しては別腹なのだと思います。
江田島行き高速艇

時間があったので呉の沖にある江田島に行ってみる事にしました。
江田島までは1時間に1〜2往復の高速艇、又はフェリーがあります。

乗り場は呉中央桟橋からで、ショッピングモールから歩いて3分、”てつのくじら館”も”大和ミュージアム”も呉駅も泊まったホテルも全て歩いて5分以内、便利です。
江田島(1)

江田島の小用からバスで6〜7分で海上自衛隊の幹部候補生学校に着きます。
見学を申し込んでみました。

ここはかつての日本海軍兵学校跡であり、日本海軍の士官を養成していました。
海軍兵学校の歴史は古く、明治9年(1876年)に開校したそうです。

現在も残っている赤レンガの生徒館は明治26年(1893年)にできたそうですから120年以上も経っているのですね。
江田島(2)

私はアナポリスにあるアメリカ海軍兵学校に行った事があります。リンクはこちら

アナポリスの規模は江田島の5倍、いや7倍くらいあると思いますが、敷地内の環境は日本の江田島も負けず劣らずという印象を受けました。

アナポリスに行ったのは2001年9月10日、つまりあのアメリカの同時多発テロの1日前でした。
ですから911を聞くとアナポリスを思い出します。
江田島(3)

敷地の中には教育参考館という立派な建物があり、中には様々な日本海軍の遺品などが展示されています。

この建物の横には”海竜”という特殊潜航艇がひっそりと展示されていました。
こんな小さな潜水艇に2人が乗って敵艦に体当たりをする、何と悲しい兵器でしょうか。

これはそんな昔の事ではありません。我々の父親の世代での出来事です。
島根県浜田市へ

急に決めた浜田訪問。
気の進まない用件ですが、行かないわけにはいきません。

呉から一番早く行く方法は広島から出ているJRの高速バスを利用します。呉から広島まで行き、切符を買うと5分後に出発とのこと。

慌てて売店でお茶とお菓子を買ってバスに戻るとバスは直ぐに発車しました。
雪景色

広島市から浜田市までは中国山脈を越えていきます。
天気予報では広島も浜田も曇り、時々晴れとなっていましたが山道にさしかかると周りは急に雪景色になりました。

バスの乗客は全部で7〜8人、する事がないので文庫本を読みながら時々お茶を飲んだり窓の外をぼんやり眺めたり、、、。
こういう旅もいいものです。
浜田市にて

浜田市は山陰地方有数の漁港があり、おいしい魚を食べる事ができます。

浜田市は初めてのところなのでホテルのカウンターで近くにある割烹料理屋を紹介してもらいました。

店は歩いて3分程、カウンターに座り先ずお任せで刺身を造ってもらいました。
確かにスーパーで買ってくる刺身とは別物の味がする刺身でした。
ホテルの部屋からの眺め

赤い屋根がJR浜田駅、その向こうの白い建物が浜田医療センターです。
広島からのバスは駅前に着きました。

人口は約6万人、漁業・水産関連が中心で大きな工場などもなさそうです。外から人が流れ込んでくる市でないのは明らかです。

滞在は極めて限られた時間でしたが、接した人々は穏やかで人情があると感じました。
広島駅

浜田市では1泊でも用事は済ませる事ができましたが結局2泊になってしまいました。

帰りもバスで広島まで。駅のあちこちで意外と多くの外国人旅行者を見掛けました。

地図片手にキョロキョロしている白人オバサンのグループ、明らかにスラブ系とわかるちょっと危なそうな中年オジサン、etc。

東京のように支那系の観光客があちこちでわめき散らしている、というのには出会いませんでした。
広島から名古屋に向かいます

急ぐ旅じゃなし、という事で帰りも”こだま”と”ひかり”で名古屋まで。
広島でこだまに乗ってびっくり。

混んでいないだろうと思ってはいましたが何と5号車には私ひとり!!
記念に写真を撮っておきました。

通路を歩いて行くともうひとり、オジサンが横になっていましたので訂正、5号車の乗客は2人、でした。
駅弁

岡山で乗り換えの時にお弁当を買いました。岡山名物”祭り寿司”。

容器の形がちょっと変わっています。
さあ、何でしょう?
逆さかなのでわかりにくいですが、岡山と言えば、、、そうです。桃太郎。

桃太郎の桃、つまりお弁当の容器は桃の形をしているのでありました。

西日本、それに裏日本方面への旅でしたが、用件はともかく夜は全て誰にも拘束のない自由な時間を過ごすことができたのはラッキーでした。

限られた時間ではありましたが、軍港呉では少しだけ珍しいところを見学する事もできました。
世界3大無用の長物、それはエジプトのピラミッド、支那の万里の長城、そして日本の戦艦大和、だそうです。

でもこんな他人事のような言葉で戦艦大和を片付けていいのか、たった数時間のアメリカ軍の攻撃で数千人の日本人の青年達が虫けらのように殺されていった、これはどうしてなのか、ナゼそうなったのか、我々は戦艦大和から学ぶ事が一杯あるのではないか、そんな事をずっと考えていました。

ま、それはともかく、この次は完全なプライベートのブラリ旅でもう少し西まで脚を延ばしてみようかな〜、、、。
そんな気になっています。

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