14−08−17 三重県とは
三重県について何が全国的に知られているでしょうか。
北の方からざっと並べてみます。

桑名にある長島温泉と遊園地
、私はまだ行った事がありませんが気絶するくらいにスリルのあると言われるジェットコースターは結構有名です。
次に同じく桑名の蛤(佃煮)、私はこれを常食しています。但し、蛤ではなく、アサリの方ですが。貝新の時雨煮、と言えば知る人ぞ知る全国区の名品ですね。

次が四日市の石油コンビナート、というより四日市公害の方が有名かも。鈴鹿は鈴鹿サーキット、最近はモータースポーツの人気が衰えてきてファンはオジサンだけになりました。
鈴鹿の西、亀山は亀山蝋燭、ちょっと前にはシャープの亀山モデル、というのもありました。

更に西は伊賀忍者、県庁所在地の津は、、、エーッと、、、只の老人の町で何もなし、松坂は松阪牛。でもこんなのは高くて庶民は気軽に食べれません。
伊勢は文句なしに伊勢神宮と二見の夫婦岩、隣の鳥羽はミキモトの真珠、海女漁に伊勢エビかな。

南に行くと最近は熊野古道が有名です。
しかし熊野という地名自体が昔から問題になっています。
熊野という地は古来から和歌山県と奈良県の一部を言い、近場の三重県が名前を横取りした、という話が絶えません。

他にもいろいろとそれなりに有名と呼ばれるものはあります。
でもナゼか三重県というのはイメージがはっきりとしない県である、というのが全国的な評判のようです。

そんな三重県ですが忘れてはならない一つに"伊勢商人"、があります。

伊勢商人は"大阪商人、近江商人"、と並んで日本三大商人のひとつに連座しています。
気質などについては、「近江泥棒に伊勢乞食」、とか言い伝えられており、辛辣です。

これを世界に広げるとユダヤ商人、華僑、印度商人となり、日本も外国もこれらの商人に対して昔も今も何となくマイナスイメージで語られる事が多いのはどうしてなのでしょうか。
多分、金儲けがうまいという、”超生臭い世界”に対する嫉みからでしょう。

ま、それはともかく我が三重県の伊勢商人という存在、江戸時代は相当なものであったらしく、その中のひとつ、松坂市にある長谷川家(屋号:丹波屋)の旧宅を訪れてみました。

長谷川家の旧邸は松坂市役所の隣にあり、駅から歩いて15分ほどです。
長谷川邸の公開は今年の4月から始まったばかりで、知人のHYさんにこれを教えてもらったので一緒に出かけました。

ここのところずっと天気が悪く、この日も自宅を出たときは晴れだったのですが、電車が松坂に着く前に猛烈なスコールとなってしまいましたが、やがて止んだので持参した傘は殆ど使わずに済みました。
江戸時代の豪商のくど、台所にしては小さいと感じました
長谷川邸は江戸時代までは500坪ほどの敷地で、明治になって隣接する2000坪程を買い取り、現在は1500坪ほどが史跡として指定されています。

江戸時代は隣接地は武家屋敷街で、商人の長谷川家はこれを買う事を許されなかったのです。

長谷川家は木綿商人として江戸に5つの店を持ち、屋号は"丹波屋"でした。

それと時代劇のドラマでよく出てくる越後屋、三井両替店、これらも松坂出身の商人が創業者です。

「越後屋、ぬしも悪よのう、フフフフ」、と悪役人と密談をしながら小判の入った箱をそっと差し出す商人、ナゼかあのシーンが頭に浮かびます。

説明によると、伊勢商人は江戸店は松坂からの出向社員(番頭)が仕切り、家主(社長)は松坂にいて年に2回程度経営会議(?)を松坂で開いた、という方法に特徴であったそうです。この会議に使われた部屋が”江戸間”で、今も長谷川邸に残っています。
夏休みの自由研究でしょうか、中学・高校生の見学者が一生懸命にメモをとっていました
公開された長谷川邸は1年前に長谷川家が松坂市に寄贈し、こうやって月2回の公開をするようになりました。

蔵の中とか大きな家の中は修復・整備されているとは言い難い状態で、これからの仕事なのでしょう。

それでも現代建築とは異なる材料が使われた家は、昔の豪商の家の雰囲気を十分に残していました。

邸宅内の説明は松坂市教育委員会の職員によって行われ、親切に詳しくやってくれました。質問にもきちんと答えてくれました。

寄贈された旧邸には多くの生活諸道具を始め様々な資料が含まれており、又それらの保存状態が良好なため、江戸店を持つ商家の研究にとって貴重なものだとの事です。

寄贈後大判小判が蔵の千両箱から多数見つかり、これがちょっとした話題になったようです。

安藤広重の江戸大伝馬街を描いた錦絵、その他の錦絵の中に多数この丹波屋ののれんが描かれています。家紋は"○の中に三"です。すぐにわかります。

湿気の多い暑い中での長谷川家旧宅の見学を終え、私とHYさんは道をはさんで前にあった喫茶店に入ってかき氷を注文、一息入れました。
午後3時前このまま帰るのはもったいないという事で松坂城の中にある本居宣長記念館、それに鈴屋(すずのや)に行ってみる事にしました。
本居宣長の旧邸、鈴屋への入り口
本居宣長は"古事記伝"を書いた国学者でその功績はよく知られています。

私が注目するのは、本居宣長が日本古来の自然・情緒からくる思想・考えを重視、外来の儒教・中華思想を批判していたという点です。

簡単に言えば日本とは何か、日本人とは何か、という事を研究し続けた人、という解釈です。
違ったかな?

ま、いずれにせよここに来るのは実に40年ぶりです。

記念館の中には本居宣長の残した偉業に関する資料が展示されており、この人の書いた文字を見ると(几帳面)*三乗、いや五乗くらいの感じの性格が伝わってきました。

学者としての業績と同時に私は本居宣長の普段の生活はどうだったのか、そういう部分にも興味があったのですが、残念ながら関連する資料は見当たりませんでした。
見学者は殆どいませんでした
唯一、家計簿(これも宣長が書いていた!)、それに様々な人からの頂き物を記した記録帳が展示されていました。

これを読むと和紙、時雨蛤、羽二重、柿、菓子(こんへいとう:多分、金平糖?)など、恐らく門人・客からもらったのでしょう、きちんと書かれてありました。
(液体燃料の頂き物はありませんでした)

その後、私とHYさんは本居宣長の旧宅に行き、かの有名な本居宣長の書斎を見学しようとしたら何と立ち入り禁止!!

どうして?! 昔は入れたのに。
「縣居大人之霊位」、の掛け軸の前で写真を撮りたかったのに、、、。

きっとどこかの見学者が悪さをしてこうなったのでしょう、本当に残念でした。

時間は5時前、さて、どこかで食事でもしていきましょう、という事でHYさんと津まで戻り、駅前の居酒屋で私は一杯、HYさんは液体燃料は注入しませんでの食事をして帰途につきました。

私は伊勢商人が江戸でこんなに手広く商売をやっていたとはほとんど認識していませんでした。
「江戸名物は伊勢屋、稲荷に犬の糞」、といわれるくらいに多かったようです。
「みかん」のかき氷、初めて食べました
三井、三越が伊勢商人(松坂)の流れである、というのも不勉強でこの日までよく知りませんでした。

そう言えば今はイオンが伊勢商人で羽振りがいいな〜。

民主党の岡田某の兄貴が会長で、グループでの売り上げは数兆円とか。
でもこの会社、好きになれない。

イオンの建物を見ると、あの民主党の国賊議員、鉄仮面こと、”岡田某”の顔がどうしても目に浮かんでくる、、、。

そんな事はともかく、三重県は商人と学者の県なんですね〜。

そう言えば明治維新直前の津・藤堂藩とか桑名藩の動き(特に戊辰戦争での動き)を見ると、武士ではなく商人的な動き、つまり算盤勘定的な動きに徹しているのがわかります。
ナルホド、三重県は侍も商人気質だったのだ、、、。

などと三重県人である私、帰りの電車の中でちょっと酔っ払った頭で考えながら家路に着きました。

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