14−05−27 寂しくなります

これまでの35年間、会社に入って以来ずっとお付き合いを頂いていた先輩のMBさん、奥さんの故郷である鹿児島県・種子島に帰る事になりました。

私は入社して数年間、工場の現場で仕事をした経験があり、MBさんはその時の先輩でした。
趣味のアマチュア無線も同じで、私が入社して転勤をするまでの数年間は何かと機会を見つけてはお互いの家を往き来し、その時はいつも一杯やっていました。

MBさんは私より7才上で子どもがいなく、当時まだ幼稚園児だった私の2人の娘達をよく可愛がってくれ、娘達もなついていました。

現在の自宅は亀山市にあり、再び帰ってくる事もあると考えてみえるのか、売らずに残しておくとのことでした。

でも一旦種子島に腰を落ち着けてしまうと、年令を考えるともう帰ってくる事はないかもしれないな〜、と考えたりしていました。

そんな訳でMBさんの友人で、最も親しかった中のひとりであるYAさんと私の2人で、中身の濃いMBさんの送別会を行うことにしました。

場所は"神島"、やはり長年住んだ三重県を離れるという事なので、三重県らしいところがいいのではないかと思い、ここに決めました。

YAさんという方はMBさんより1才年上の同じく会社のOB、私はMBさんと同じくらいの長さの付き合いの方です。
YAさんと普通の人の違いは、そのズバ抜けた”財テク”の能力です。鈴鹿に住むこと50年、現在住む自宅は4軒目、今まで住んでいた3軒は手放さずに借家にしています。

YAさんは他にアパートを2棟持っており、更に最近大きな貸倉庫も買ったようです。
ですからみんなからYMさんは、"YM不動産"と呼ばれています。年金は多分、全部YAさんの小遣いです。

YAさんは倉庫にしてある私の前の家を見て、
「Nさん、あの家を遊ばせておいても一文の得にもならない。固定資産税分も稼げていないじゃないか。ちょっとは頭を使いなさいよ。」、といつも言いいます。

私はYAさんから見ると、”アホ”かも知れません。

鳥羽まで3人はYMさんの運転する車で行きました。
鳥羽佐田浜から鳥羽市営の離島連絡船に乗って45分、14:50に神島港に着きました。当初の計画では午前中に島に渡り、昼食後島内のハイキングをする予定でしたが、この日は天気が悪くハイキングは翌日にする事にしました。

夕食は早めに17:30にお願いしてあったので、それまで部屋でくつろぎ、ゆっくりと風呂に入りました。
私はこの民宿には以前に2回泊まった事があり、オカミさんが私の事を覚えてくれており、「まあ、お久し振り、奥様はお元気ですか」、と声をかけてくれました。

この奥さんは半年ほど前にテレビで見てびっくりしたので、その事を話しましたら、奥さんは照れておりました。

神島は三島由紀夫の小説"潮騒"で有名で、1963年頃に吉永小百合と浜田光夫のコンビで映画の撮影がこの島で行われました。

奥さんはその頃小学生で吉永さゆりと親しくなったそうです。(確か吉永小百合は奥さんの親が経営する民宿に泊まっていた)

その吉永小百合が撮影が終わって帰るとき、その日は学校があって奥さんは授業を受けていたのですが、先生に断って吉永さゆりを港まで見送りに行きました。

島の学校から港までは一山越える、という感じで奥さんはその道をもうひとりの女の子と走って港まで行き、吉永さゆりに記念品を渡しました。
そして50年後、その再会が昨年の暮れにあったという事で、テレビで報道されたのでした。

風呂に入った3人は17:30になったので1階の食堂に行って食事を始めることにしました。
テーブルを見て3人とも、「オーオ、すごいな〜!」、と一吠え。
鯛、アワビ、伊勢エビ、生タコの刺身の舟盛りです。
この民宿はとにかく食べきれない程の量の料理が出てくるのです。

私は奥さんに、「今度は年配者が2人行くので、"量より質"、でお願いします」、と言ってあったのでした。
でもこれ以外に出るは出るは、テーブルに乗りきらない料理が出てきました。

一杯飲みながらMBさん、YAさんと3人で昔話に花を咲かせました。

YAさんは"趣味不動産"以外に海の幸・山の幸を採りに行くのも趣味で、MBさんと私もよくお供をしました。その時もいろいろな事がありました。

春の筍採りなんか、3台の車のトランク一杯採ってきたり、アサリも数人でスーパーの手かごに5〜6杯くらい採った事もありました。みんな30代で元気がありました。

送別を受けるMBさんは50代になってロッククライミングを始め、日本のあちこち、ヨーロッパのスイスまで遠征をしていました。
その時の話もしてくれました。

またMBさんも私と同じ中途採用で、その前は水産会社にいてカリブ海のセントマーチン、アフリカ沖のトリニダートなどの日本漁船の基地に駐在をしていました。
その頃の話は昔からよく聞きましたが、1960年代は世界の隅々まで日本漁船が出ていたそうです。

私もその20年後の1980年代前半にカナダのハリファックスの一流レストランで、日本漁船の乗組員が大宴会をやっているのを見た事があります。真っ黒に日焼けした、元気のいい船員達でした。

様々な思い出話をしながら気が付いたら3人で焼酎を1升近く飲んでいました。
民宿の奥さんは私達3人に6畳と8畳の部屋を通しで準備してくれてあり、広い部屋で3人はゆったりと寝る(気絶?)事ができました。。

翌朝はあれだけ飲んだのに目覚めはすっきり、7時に朝食を頂きました。
朝食もいつものように山盛りの鯛のカブト煮が出て、これだけでお腹一杯になる感じでした。
午前の船は11:35、その後は15:30までないので、午前の船に間に合うように島内ハイキングに出掛けました。

山を少し上がって港を見ると港は防波堤の工事をやっており、多くの工事用の機材、それに島外からの作業員の姿が見えます。
ハハーン、昨夜隣のテーブルで食事をしていたのはこの作業員達だな、でも民宿に泊まらなかったから宿泊はどこか別なところだったようです。

更に歩きます。
伊勢湾の入り口にある神島は、伊勢湾、伊良子崎、太平洋、そしてここを通る多くの船を見下ろすような感じで一望できる素晴らしいところが何カ所もあります。

この日は天気は晴でしたが、霞がかかっており、目の前の伊良子崎はくっきりとは見えませんでした。
それでも灯台、監視消から眼下に見える伊良子水道の眺めは素晴らしいものがありました。

昨夜あれだけ飲んだせいか、MBさんはちょっと元気がありませんでしたが、YMさんは元気そのもので約3.5kmのコースを軽々と歩きました。

11:00頃民宿に戻り、荷物を取って港に行って連絡船を待っていると民宿の若奥さんが走ってきて3人にお弁当をくれました。

前にこの民宿に来た時は、夕食で食べきれなかった刺身を使って作った"手こね寿司"を持たせてくれましたが、今回は炊き込みご飯でした。

連絡船が鳥羽の佐田浜に着いたのが12:30、3人は民宿でもらったお弁当を連絡船の発着岸壁横のベンチに座って頂きました。

MBさんの送別会はYMさんと私の3人でこじんまりと、しかし中身は濃く行いましたが、MBさんも大いに満足してくれたと思います。

MBさんの奥さんは仕事の都合で既に種子島に行っており、MBさんが行くのは当初の予定より少し遅れて8月後半から9月になるようです。
長年お世話になったMBさんですから、あと何回でも送別会はやります!

ひとまず、「MBさんお元気で」。

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