11−09−13 もう一つの故郷
土日休みから木金休みになって3ヶ月目、あまり違和感を覚えなくなりました。
今週も出張でしたが移動が土日になると、新幹線なども混雑の時間帯が微妙に違い、席もゆったりと座れる事が多いのでむしろ好都合な場合もあります。

今回の出張のホテルは埼玉県川越市でした。私達は25年前から15年前までは埼玉県の住民で、東武東上線沿いに住んでいましたので、川越は懐かしいところです。
工場での会議は午後からなので、時間のやりくりをしてほんの僅かな時間でしたが、昔住んでいた団地を訪れてみました。

住んでいたところは東武東上線の柳瀬川から歩いて12〜3分のところで、志木ニュータウンの一番奥にあるマンションでした。

駅に降りたのは10時半頃で、日差しもあって蒸し暑く、少し歩くと汗が噴き出てきます。
駅前は建物も街並みも何も変わっていません。

変わっているな〜、と思ったのはあちこちの木々が大きくなっていて、うっそうと茂っている点でしょうか。

駅を降りてペアモールというショッピングモールを通って団地の方に向かいます。25年前に荷物を持って小さな娘達を連れて三重県から到着した日、昼食を食べた中華レストランも健在でした。

毎日の通勤では往復で3kmを歩いており、革靴の底が直ぐにすり減ってしまいました。
そのために靴底の修理を定期的にやっていましたが、この修理屋も同じ店構えでやっていました。

通りからかなり大きな公園を抜けると、当時住んでいたマンションにたどり着きます。昔と同じです。借り上げ社宅だったマンションは随分広く4LDKで納戸もあり、確か100u以上ありました。
つまり今よりも広いマンションでした。

毎日7時ちょっとこのマンションを出て駅に向かって歩きました。あの頃は今のような季節でもでもネクタイしてたな〜、、、。朝は7時半頃に家を出て帰りは何もなければ8時頃には帰宅していました。
転勤直後は慣れない職場で随分苦労もしました。本社というのは工場とは違った独特の人間関係が築かれており、これにも苦労しました。

マンションの南側には小学校があって、娘達が校門に入るまで部屋から姿が見えました。
上の娘は転校した学校に直ぐに慣れたようでしたが下の娘は馴染むまでに少し時間がかかりました。

学校では運動会の徒歩競争は予選をやって同じような早さで走る子がグループで走ったり、1等にも2等にも商品はなかったり(差別になる、ということでした)、PTAの中には共産党で市会議員に立候補するお母さんがいたりしました。

転勤早々に団地内の同じ会社の知らない人から飲み会に誘われたので出掛けて行ったら、これまた数人の知らない人がニコニコ出迎えてくれました。創価学会への入会の勧誘でした。

マンション群の住人の殆どは都内通勤のサラリーマンで、多くの人が私と同じか、40代の人が多かったように思います。

期末決算の時にシステムのトラブルが発生、夜中まで残業してタクシーで帰った事もありました。
また、渋谷で飲んでタクシーで帰った翌日、鞄をスナックに忘れて来たことに気がついて青くなって渋谷まですっ飛んで行って、店の前の階段に座ってママさんが出勤するのを待っていた事もありました。

このマンションを見ていると25年前の30代半ばの自分の姿が目に浮かんできました。何でもやった、そしてできると思っていたあの頃、懐かしくもあり、楽しくもあり、そしてほろ苦くもあった日々でした。
団地の中を汗を拭きながらブラブラと歩い感じた事のひとつに、やはり退職した60代半ば前後の人の姿が目立った事でした。
この団地は4000所帯ほどの規模で、日本の高度成長期そしてバブルの頃の中堅サラリーマンが住んでいたマンション群でもありました。

そして数年前からそれらのサラリーマンが退職を始めているからだと思います。駅前のスーパーにも入ってみました。
買い物客は60才以上の人が目立ちました。あと10年、20年したらこの大団地はどうなるのでしょう。

空き家ばかりのゴーストタウンになるのでしょうか。人も国も黄昏に向かって進んでいる、25年〜15年前と比較をして何だか少し寂しくなってしまいました。

2日間の工場での会議が終わった夕方、川越市駅と本川越駅の間に住んでいる先輩、MSさんを訪ねてみました。
この方は1992年から1993年にあるプロジェクトで一緒に仕事をした方で間もなく69才、つまり退職されて既に9年を過ぎた大先輩です。

昔から家の大体の場所は聞いていたのですが、実際に行くのは初めてでした。MSさんは親の代からずっとここに住んでいるので、近所の人はみんな知っているので家は直ぐに見つかる、と聞かされていました。
最初はお菓子屋に入って聞きました。残念ながら店の人はみんなよそから通いで来ているので、知りませんでした。

次に八百屋に入って聞いてみました。かなり年配のおじいさんが出てきました。
「MSさん?どこの会社に行ってた人?H?知らないな〜、TBに行ってた人は知ってるけど。」。

今度は不動産屋に入って聞いてみました。「あっ、その方はここですよ。」、結局私はMSさんの家の付近30m位をグルグル回っていたのでした。

MSさんの家は名門川越女子高校に隣接してありました。
MSさんはご在宅でした。最後に会ったのがMSさんが退職する直前ですから9年ぶりの再開でした。

ちょっと老けたかな?と思いましたが9年前と殆ど変わっていませんでした。
八百屋のおじいさんが言っていた、TBに行っていたMSさんって誰なのか聞くと、「ハハハ、それはオレの親父の事よ。」、と言って大笑い。

いろいろと昔話をして40分ほどおじゃまをしてしまいました。

MSさんは立派なモダンな家に住まわれており、2階のベランダからは女子校のプールが丸見えだ、とニコニコしてみえました。
電話番号もお聞きしましたし、今度は時間をとっておじゃましますので一献お願い致します!
ここのところもの凄い円高、1ドル77円前後になっています。この円高は日本の製造業を直撃しており、既に日本国内で物を生産して海外に輸出をするという経済が成り立たなくなっています。

出張先のホテルでテレビを見ていたら円高の製造業に対する影響について報道をしていました。報道の内容は、円高によって20人とか30人くらいの小さな会社までも海外へ工場移転を進めている、という内容でした。
小さな会社は資金力に限界があるので、複数の会社が出資をして海外移転を進めている、とも報道されていました。

経営者達は口々に、「日本ではこれ以上はムリ、海外に出るしかない。」、と言っていました。
家庭用品を作る10人くらいの規模の会社まで海外に出て行かざるを得ない状況。報道はここで終わっていました。

私は一瞬、「ナニ?これ〜。」、という気分になりました。
どういう事かと言いますと、これらの企業が海外に行ってしまう、その結果どうなるか?という点に一切触れていなかったからです。この報道の目的は実にここにある、と思ったのですが。
日本の工場の縮小・閉鎖 → 従業員の解雇 → 失業者の発生、これについては一言もありませんでした。

ところで失業対策ですが、失業対策とは失業した人にどのように再び仕事を与えるか、で、真の対策は失業しないようにする事、つまり日本の工場が日本に残ってもの作りを続けること、そのためにどうするかだと思うのですが。

政府は雇用形態(派遣法の改正)とか失業給付の拡大が失業対策だと思っているし、マスコミも、雇用は各々の企業でもっと真剣に考えろ、利益ばかり追求するんじゃない、みたいなトーンですよね。

企業の努力ではできないところをやるのが政府の役割だと思うのですが、、、。
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