10−06−16 お別れ
海外・国内を問わず転勤の時は引越し荷物を転勤先に送らなくてはなりません。私の会社では海外から帰任の場合、船便を2回に分けて送り出しをする事ができます。船便は北米の場合、到着までに40日程度かかるので、かなり早い時期に送り出すことになります。

他に日本に到着後直ちに必要な身の回りの物を送るため、航空便でも100kgを限度として荷物を送る事ができます。

いずれにせよ荷物を送り出すとそれまでの家では生活できなくなるという事で、会社では帰国前に家族が住むための家具付きのアパートを手配してくれます。

私とカミさんも2回目の船便を出したところで、ここに移り住みました。
このアパートはベッドを含む家具一式、洗濯機・乾燥機、冷蔵庫、オーブン、調理器具・食器など、入居者は何も持たないでもすぐに生活ができるようになっているのですが、実はちょっと問題がありました。

住み始めて2日目、雨降りだったのですが家の中が妙に湿っぽい。
オハイオは雨がどれだけ降ろうが家の中はからっとしており快適なんですが、ここは何だかジメジメ。リビングルームを見るとじゅうたんが濡れています。この部屋、雨漏れがしているのです。

ここには6月17日にオハイオを去るまでの約3週間生活をしました。14年前のオハイオ駐在の最初の1年間は単身赴任だったので、やはりアパート生活の経験がありました。

この時のアパートは2階の角部屋、窓からは手入れの行き届いた芝生と大きな池が見えるといういい環境で非常に快適だった記憶があります。

まあ会社がせっかく手配してくれたアパートで、インターネットも使えるようにしてくれてあったりしてあまり文句は言えないのですが、オハイオ生活の最後を送る場所としては少し残念でした。

アパートそのものが悪いのではなく、その部屋が少々問題があっただけなので、会社の総務担当のKさんには、「あの部屋だけは使わないほうがいいですよ。」、と意見具申をしておきました。

もっとも雨漏れがある事を言った翌日、直ぐに業者が来て修理をしていきましたが。

でもアメリカのアパートって何でこんなに広いんだろう、2ベッドルームの間取りで120平米以上は確実にあったと思います。

住まいもアパートに移り、オハイオを去る日も刻々と近付いてきておりましたが、それまでお世話になったいろいろな方々にお別れを言わなくてはなりません。

職場のオハイオ人、同じ日本人の駐在社員仲間、取引先の米人・日本人、ここまでは日本に帰る駐在社員としては共通で、私の場合3人のお別れの挨拶を言っておきたい、仕事とは直接関係のないオハイオ人がおりました。
一人は歯科医のドクター・ライト、二人目は14年間定期健康診断をやってくれたドクター・ホイ、三人目は私の少ない髪の毛を14年間ケアしてくれた床屋のハンクでした。(ドクター・ライトは前の日記で書いたとおりです。)

ドクター・ホイは会社の近くの病院に勤務しており、多分私と同じくらいの年齢で、専門はよくわかりませんが非常に親しみのもてるドクターでした。
定期健康診断の最後にいつも指を突き立てて、「する?タダだよ。」、と直腸の検査を勧められましたが答えはいつも、「ノー」、とさせて頂いておりました。

昨年12月の腰のMRI検査もドクター・ホイが手配をしてくれ、検査結果に対する所見も詳しく説明してくれました。
ドクター・ホイが紹介してくれた整形外科の専門医には残念ながら診てもらえず、私はある人の紹介によってドクターMの診察を受けそして手術を受けました。

ドクター・ホイは私が手術を受けるという判断をした旨をメールで連絡をした後に、セカンドオピニオンを得るようにというメールを送ってくれていたのですが、それは私が手術を受けた翌日でした。

ドクター・ホイには受付を通して直ぐに面会をする事ができました。今日は診察を受けに来たのではなく、日本に帰るので挨拶に来た旨を言いい、お礼を言いました。
彼は手術後の様子を聞きましたので、「問題はなく、調子はいい。」、と答えると一瞬首をかしげる仕草をしました。
これは何を意味するのか、もともとドクター・ホイは私が受けたような大掛かりな手術にはあまり賛成ではなく、本当に結果はいいのか?というサインのようでした。

私は日本に帰ってからの計画を話し、再度14年間のお礼を言いました。ドクター・ホイは恐らく14年分の私の健康診断の履歴がファイルされた7〜8cmもあるファイルを静かに閉じ、お別れの言葉をくれました。
仕事とは言え日本人に親しみを持って接してくれたドクター・ホイ、私の健康を支えてくれたオハイオ人の一人としてお礼を言うため突然の面会の申し込みでしたが会えて本当によかった。

ありがとう、そしてさようならドクター・ホイ、、、。
3人目のお別れを言っておきたかったオハイオ人は床屋のハンクでした。床屋のハンクは1996年8月に初めて彼の店に行って以来14年間、私の髪を切ってくれた人でした。
年令は私より2才上で、名前のとおり先祖はドイツからの移民のオハイオ人でした。

ハンクの店に行くようになったきっかけは近くにあるJという名前の日本レストランの寿司職人から教えてもらったからでした。ハンクの店に行くのは土曜日、電話を掛けて予約をしてから行くのですが、土曜日なのでカミさんの買い物も兼ねているので、いつもカミさんと行きました。
下の娘がいた頃は娘を連れて行き、散髪が終わるまで待たせた事もあります。上の娘がオハイオに来た時も連れて行った事があります。

カミさんと行くと、「今日もショッピングのお供ですか?」、とか言っていろいろと世間話をしてくれました。

最初の頃は私のジャングリッシュ(日本語訛りの英語)に慣れていない様子で、なかなか言う事を理解してくれなかったのですが、何年か経つうちにかなり理解してくれるようになりました。

彼は数年前に心臓の手術をして数ヶ月店を閉じた事があり、今年の4月になって再度手術を受けたらしく、店に電話をすると留守電になっていました。
私も2月末に腰の手術をしたので結局今年の1月を最後にハンクには会っていませんでした。

ハンクとは1ヶ月に1回程度しか会わないのですが、年令が近いせいもあって何故か親しみが湧いており、髪を切ってもらっている間いろいろな話をしました。

そのハンク、手術後の回復もしたらしく、6月7日にようやく店を再度開くという留守番電話メッセージがありました。そして私はオハイオを去る前日の16日の午後3時にハンクの店を訪れました。

店に入ろうとすると店は閉まっているではありませんか。慌てて電話を掛けると、今週の営業時間は朝9時から午後の2時までという留守番メッセージが聞こえてきました。
あと1時間早く来ていれば会えたのに、、、私は準備したお土産のマグカップを持って帰るしかありませんでした。
この日はオハイオ最後の日という事で2台の車のうち1台を会社に返納しており、同じ駐在員のYさんの車でハンクの店に来たのでした。
こうなったら挨拶のメッセージを書いて、それをYさんに届けてもらうしかありません。Yさんにお願いをすると彼は快く引き受けてくれました。

私はアパートに帰り早速ハンクあてのメッセージを書いてYさんにメールをしました。それをYさんに印刷してもらって、なるべく早くマグカップと一緒にハンクに渡してもらうのです。

そしてYさんは3日後の19日の土曜日にハンクの店に行って、私の手紙とマグカップを渡してくれたのでした。
ハンクからは何とメッセージとマグカップを受け取った2時間後、私にメールが届きました。私は時差ボケで早朝に目が覚めて、ホテルの部屋でメールを書いていたら突然飛び込んできたのでした。

私は直ぐにオハイオのYさんに電話をしました。それは20日(日)の朝6時、オハイオは土曜の夕方5時でした。

電話に出たYさんは、「さっきメッセージとマグカップを渡したばかりなのに、もう返事が来たのですか。」とハンクからのメールがあまりに早く私のところに届いたのでびっくりしていました。
Yさんはハンクが私からのメッセージと記念のマグカップを受け取って喜んでいた事、私と会えずに残念がっていた事を電話で話してくれました。

ハンクからのメールは、心のこもった丁寧なものででした。私は何度も何度も読み返しました。そしてハンクの顔を思い出していました。
最後にハンクとは会えなかったけど、ハンクのメールには一生私の事は忘れないと書いてくれてありました。Yさんは気を利かせて私の写真もハンクに渡してくれたようでした。

私がプレゼントしたマグカップでコーヒーを飲むときに私を思い出して下さい。お互いに健康に気を付けて生きていきましょう。
ハンクさようなら、14年間ありがとう、、、。
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