09−04−12 蘇った中学時代

私は中学校の1年生と2年生の1学期を三重県熊野市という市で過ごしました。
熊野市というのは三重県の最南端の市で、紀伊半島の先端に近いところにあります。地勢的にかなり隔離されたところというイメージがあり、事実私がそこに住む数年前までは非常に不便なところだったと聞かされた記憶があります。(もちろん今は道路も整備されて何の不自由もないところです。)

熊野市に住んだ理由は父親の転勤でした。熊野市での生活はたった1年半という短い期間でしたが、ナゼか私の今までの人生の中でこれほど密度の濃い時間というのはない、といえる位に強烈な記憶として残りました。
これは私の母親、そして当時まだ小学生だった妹も同じで、今でも当時の生活の話が出るくらいにインパクトの大きなものでした。

あれから40数年、熊野市をじっくりと再訪したいと思ってはいたのですが、ずっとその機会を作る事ができませんでした。やはり気になるのは当時の同級生、そして先生の事でした。

でも私はよそ者だったし、行っていた中学校は卒業することなく、また津に戻ったので、みんなは私の事を覚えていないかも知れない、、、そんな不安もありました。

でもやはり行ってみたい.。
そこで今回の一時帰国休暇を利用して熊野市に行ってみる事にしました。
訪れたいのはやはり自分が住んでいたところ、それに通っていた中学校でした。

中学校の名前は有馬中学校、私はここの校長に手紙を書きました。
かつて有馬中学校で学んだ者であるが、卒業をしていないので卒業アルバムを持っていない、そこで学校におじゃまをして卒業アルバムを見せて欲しい、、、。そして手紙が着いた頃、校長に電話をしてみました。

校長はSさんと言う方で、私と同年輩の方でした。どうぞ来て下さい、という返事でした。

せっかく行くので一泊で行く事にし、ホテルを予約しました。熊野市有馬町にはホテルは一軒しかありませんでしたが、それは偶然にも私が住んでいた官舎から200mも離れていないところでした。

津から熊野市まではJRの特急で2時間、その昔行ったときは5時間近くもかけて行ったのに比べると何と早くなったのでしょうか。
熊野市には11時頃に着き、駅前で食事をして駅前から続く商店街を歩いてみました。通りの雰囲気は変わっていませんが、半分以上の店にはシャッターが下りていました。

ホテルまでは2kmくらいなのでブラブラ歩けない事はありませんが、タクシーに乗りました。

ホテルは1泊4500円(!)のビジネスホテル、夫婦でやってみえる家族的な雰囲気の、ビジネスホテルというより民宿と言った感じのホテルでした。

部屋に荷物を置いて、奥さんに出されたコーヒーをロビー(というよりお茶の間)で飲んで、早速外に出てみました。

おお!通りの雰囲気はあちこちの家が新しくなっているだけで40数年前と同じではありませんか。段々感激でこみ上げてきます。

50mほど歩くと、何と何とY薬局の看板もあるではありませんか。
Y薬局は住んでいた官舎の前にあり、ここにはかなり怖かった私より一つ先輩がいました。

看板は上がっていますが、店は閉まっています。そこでお勝手の方に周り、大きな声であいさつをしました。
「ごめんくださーい!」、2,3回叫ぶと奥さんが出てきました。
「40年以上前に前の官舎に住んでいたNです。Yさんはお見えでしょうか?私より一つ上のYさんです、、、。」、Yさんは見えました。
そして私を覚えていてくれました。

Yさんは歳相応の顔に変わっていましたが、あの鋭い目だけはきちんとそのまま残っていました。

薬局は8年前に閉めたそうで、こんな田舎にもチェーン店が進出して、個人薬局は商売ができなくなってしまったと仰って見えました。

Yさんとしばらく話をして住んでいた官舎の方に行ってみました。
何と、何と、これも残っていました。今は誰も住んでいないようで裏に回ってみると戸が開いております。思わず中に入ってみました。

記憶に残っているままの部屋でした。ここに勉強机を置いていたなー、、、台所も流しが新しくなっているだけで、後は何も変わっていませんでした。

ここの官舎には20分もいたでしょうか、実はここから歩いて10分くらいのところにもう一軒官舎があり、ここにも半年くらい住んでいましたので、こちらにも行ってみました。

ここも残っていました。後で聞いた話ではほんの最近まで独身赴任者の社宅(今は官舎ではなく社宅)になっていたそうで、残念ながら中には入れませんでした。
有馬中学校には午後2時におじゃまする事になっていましたので、その少し前に学校に行きました。校舎新しくなっておりました。校舎正面から入ると若い男性の事務員が出てきて校長室に案内されました。

校長のSさんとここで初対面、一応名刺を交換しました。Sさんは私の気持ちと希望を全部理解してくれておりました。

「卒業アルバムですが、探してみたのですがNさんの学年の卒業アルバムだけ見つからないのです。

そこでNさんの同級生であるSMさんが私の高校の同級なのでSMさんにお願いをしてアルバムを借りてきました。」


そうなのです、Sさんの同級生は私の同級生なのです。

「せっかくですからSMさん、それにYK君とIW君を呼んであります。もうすぐ来ると思うのですが。」

何とS校長は私の同級生3人を学校に呼んでくれてあったのです。感激の至りとはこの事でしょうか。やがて3人が校長室に現れました。

40数年ぶりに会う3人。YK君もIW君も、不思議なくらいに昔の面影を残していました。

YK訓は市役所職員、IW君は熊野市でも珍しい専業農家で家を継いでいるとの事でした。SMさんは中学生の時も結構なベッピンさんでしたが、今もそうでした。

「N君、面影残っているね。」

と言ってくれました。

そして思いがけない話がここで出たのでした。

「実は明日、有馬小学校のクラス会があるのです。N君はここの小学校の卒業生ではないけど、幹事に事情を言ったところ出席してもらっても構わないと言ってくれました。

もう一泊する事になりますが、スケジュールはどうかな?」


私は明日に熊野から津に戻る事にしてあって、ある人と会う約束があったのですが、このスケジュールを変更して、有馬小学校のクラス会に出席させてもらう事にしました。

有馬中学校の同級生140人のうち100人は有馬小学校出身なので、このクラス会に出れば、殆どの仲間と会える事になるのです。何と言う偶然なのか、自分でも信じられない事でしたした。
この後しばらく話をして、3人は帰って行きました。私はSさんに学校の中を案内して頂きました。
各教室、廊下、その他信じられないくらいに清掃が行き届いていました。

階段ですれ違う生徒達はSさんと私に向かって挨拶をしてくれました。ああ、ここの生徒は純朴だなー、それに先生の指導も行き届いているなー、私はそう感じました。

「実は私は4月1日にここに赴任をしてきたのです。」

これを聞いて再度私は驚きました。Sさんが校長でなければ卒業アルバムも見れなかったし、小学校の同窓会にも参加をする機会もまず100%なかったからです。

「ここの職員・先生たちは非常にコミニケーションができています。それにみんな一生懸命にやってくれます。」
「それとNさんからの手紙、あれは先生方にも見せました。何年経ってもこんなに有馬中学校の事を覚えていてくれる人がいるんだと。」


私は恐縮してしまいました。Sさんは有馬中学校は2回目の勤務で、1回目は教諭として、2回目は校長としての勤務と仰ってみえました。
校長室に戻った私は、Sさんが準備しておいてくれた卒業アルバムのコピーを受け取り、当時の有馬中学校の航空写真を持っていたデジカメで写真に収め、お礼を言ってSさんにお別れを言いました。

そして私は思い出のあるプールの方に行ってみる事にしました。テニスコートの横をゆっくりと歩いてプールに向かっているとコートにいた15名ほどの生徒達が練習を止めて、私の方に向かって挨拶をしてくれたのにはびっくりしました。
きちんと教育をする先生がいるんだな、私は思いました。

プールは古びていましたが、全く昔のままでした。さっき会ったIW君が、「N君は水泳部やったやろ?」、彼がいうとおり、2年生になって私は水泳部に入り、猛練習をやって南紀大会に100m平泳ぎの選手で出場したのです。

そしてここで3位以内になれば県大会に出場できる事になっていました。大会には母が応援に来てくれていました。

母は桃色のパラソルをさしてスタンドに座っておりました。
8人の選手が泳ぎ、私は見事2位になりました。

「一着、、、XX中学XX君、時間XX分XX秒、二着、、、有馬中学校N君、時間XX分XX、、」

私はやった!と心の中で叫びました。二着とは!!

「、、但し失格、、、、、、、、、、、、三着、、」

私は泳法違反で失格だったのです。その後の事はよく覚えていません。もう悔しくて、悔しくて、この悔しさは有馬中学校最後の強烈な思い出になりました。
私はその1週間後、熊野から津に戻り、級友達と会うことなく、今日まで過ごしたのでした。

私は40数年前を思い出しながらプールをずっと眺めておりました。。
翌日の有馬小学校のクラス会、それは懐かしさとか、そういうレベルを越えた感激の世界でした。時間は誰にも平等に配られ、みんなそれぞれ一生懸命社会のために貢献し、家族を守ってきた顔がありました。

有馬中学校に通っていた時の仲間の顔、顔、顔が目の前にありました。
隣の官舎には双子の女の子の同級生がいました。その妹の方のKMさんにも会えました。秀才のMT君、畑から黙って芋を掘り起こして海岸で焼き芋をやったOK君、みんな私の事をよく覚えていてくれました。

「SHIN君はいつの間にかいなくなってしまった。いつまで有中にいたんだっけ?」

という同級生が何人もいました。そう言えば、急に津に戻る事になってみんなに挨拶をして回った記憶がありませんからそういう言い方をされても無理はありません。

でもこのクラス会はあくまで有馬小学校のクラス会で、私は好意により出席をさせて頂いていた訳で、幹事のKYさんには感謝、感謝でした。

2次会もこの会場内の別室で行われ、部屋に戻ったのは12時を過ぎていました。会場は宿泊施設もあり、ここに泊まったのは出席者約60名のうち男4名女3名で、この7人で3次会をやってみんなそれぞれ夜中の1時頃に床に就きました。

翌朝は朝食の後、それぞれ別れましたが、私は同じく泊まったSZ君の車に乗せてもらって津まで送ってもらいました。
SZ君とはいろいろ遊んだ覚えのある親しかった同級生の一人でもありました。
車で2時間半、いろいろと話をしました。もう全く昔のNとSZに戻っていました。

彼は名前は私と同じ「SHIN」という共通点もあるのでした。津駅の前で別れるとき、彼は車から出てきて私の手を握ってくれました。顔は全く昔のSZ君そのものでした。彼は津駅の近くに住んでいるので、これからもちょくちょく会う事になりそうです。

SMさん他には、「私は有馬中学校中退」、ではありますが有馬中学校の同窓会のメンバーにして欲しい旨の手紙を出しておきました。

40数年ぶりの2泊3日の熊野市への旅、本当に幸運に恵まれた旅でした。
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