05−08−07 8月15日:その1 

カミさんが一時帰国、自炊生活を4週間やらなくてはならなくなりました。
簡単に作れる材料、私の場合一杯飲むためのツマミの事ですが、をスーパーに行って買ってきたり、たまに早く帰れる時は日本食のスーパーで売っているお弁当を買ってきたり、ない知恵を絞っています。

1人での食事ですから、自然とテレビの前に座ってチビチビと液体燃料を注入、結構酔っ払ったところで、最後にご飯類か麺類を食べておしまいというパターンになります。

つまり朝も含めて、テレビを見る機会が飛躍的に増えます。この場合、やはりアメリカのチャンネルはニュースとか以外はあまり見ません。つまり主として日本語の衛星放送を見ます。

2005年8月、終戦60周年のためか、ニュース・一般番組ともこの辺に焦点を当てたものが非常に多いように感じました。以下オハイオにいる一時的単身のオジサンが、酔っ払いながらボーっと日本語放送を見て感じた事、、、、、。

戦没画学生

絵描きさんも、当然の事ですが召集されて戦争に行かれました。私は世の中、尊敬すべきは、無名の志の高い人達だと思います。最近私の会社の中も含めて世の中、志の低いというか、ないヤツの何と多いことか、、、。

それはともかく、絵描きさんは芸術家です。絵は私のような凡人にも分り易い芸術の一つです。
私が尊敬していたある音楽の先生が言っていました。
「人の気持ち、内面にあるものを音楽で表現するのは意外と難しい。その点絵は、音楽よりもっと直接的に訴える事ができるような気がする。だから僕は画家が少し羨ましい。」

番組は2つのトーンで作られていました。一つは、このような才能を持った、多くの絵描きが一兵士で死んでいった事に対する戦争の不合理性、そして戦死によってそれぞれの家族、周りの人がどれほどの悲しみに包まれて、それが今でも続いている事に対する戦争の無慈悲さでした。

戦死した絵描きさんは殆どが昭和19年と20年、コメンテーターのYという映画監督は、「これはどうい事だかわかりますか。この事実に対する責任は誰だ!」、って叫んでいましたっけ。
私は思わず、「オマエ、バカか!」、って思いました。60才過ぎたオッサンが20才か21才の学生と同じような事をまだ言ってる。
このYという映画監督のお陰で、この番組は90%くらい価値を落としていました。

広島原爆記念式典

8月6日に広島で行われた式典の模様をCNNが放送をしていました。広島市長、日本国首相、それに、子供2人がどんなスピーチをしたかという内容と、式典に参列した何人かの人に対するインタビューでした。

でもどうしてCNNのインタビューを受ける日本人って、あんなに英語が上手いのだろう。はっきり言ってムチャクチャ上手い。
というより、ネイティブです。それにあの素振りと、言い回しは日本人ではなさそうです。
CNNは多くの場合、例えば東京で街頭インタビューするような場面でも、みんなもの凄い英語の上手い日本人が急に出演してきます。あれ、どうしてなの?

実は丁度10年前の8月8日、つまり記念式典の2日後に私は広島を訪れていました。
広島にあるM社に、行った帰りでした。その頃、同業種・異業種を含めいろいろな会社に行くという仕事をやっていました。

確か原爆死没者慰霊碑(この言い方間違っているかも知れません)だったかには、「私達は、、、過ちは二度としません、、、云々」、と書いてありました。
これを読んだ時、私はものすごい違和感を感じたのを覚えています。

過ちを犯したのはアメリカじゃないか、原爆の人体実験をするために計画的に、広島には8月6日まで通常爆弾による攻撃すらしていなかったじゃないか。他の都市は焦土と化していたのに、、、、。

でもやっぱり広島市長の今年のスピーチにも、これと同じような意味の内容が入っていました。

画一性と議論の余地

これもある特集番組での内容です。実はこの内容は数ヶ月前の新聞記事にも出ていたので、それと併せて思い出しました。
内容はある有名私立高校の入学試験問題の英語の長文問題として、太平洋戦争末期の沖縄戦に動員された元ひめゆり学徒による戦争体験の証言が、「退屈で飽きてしまった。」とする文章を出題していたという事です。

この出題はその学校のある先生が、自分の体験に基づいて作ったらしいのですが、元学徒の話し方が、話し慣れし過ぎている、あまりにも職業的であった、その話し方が好きになれなかった、という事でした。
そしてこの問題の中身が不適切という事でやり玉に上がって新聞に載り、その番組では、「苦労をした人の気持ちを理解する事がなくなってきました、、、。」、という例で、ちらとそのキャスターが言及していました。

元ひめゆりの学徒の話は心熱く、そして敬虔に聞かなくてはならない、話し方が少々退屈であっても、その話の奥にある心を汲み取らなくてはならない、そういう事だと思います。
この例は、敢えて誤解を恐れずに言えば、日本社会にある、価値観、考察、考え方の画一性の押しつけの例の一つであると思いました。趣旨は理解したとしても、「退屈であった」、と思ってはイケナイのです。言ってはイケナイのです。

物事に対して、まず、誰かがこうでなくてはならないと決めつける、そしてそれに少しでも批判的な事、ネガティブな事は排除する、公の前でつるし上げをする。
要するに、こうでなければならない、と決めた事に対して議論をしてはいけないのです。議論をすると、その人・組織は抹殺されます。議論、質問はそもそも反逆行為なのです。

あれ?これって60年前と同じじゃない?これが一番反省しなきゃならない事じゃなかったっけ?
最近時々メール等で、「オハイオ日記」、についてある批評をもらいます。何か内容が固い、もっと面白い日常生活の話を載せて欲しい、という内容です。
でも勘弁して下さい。難しい事考えないで頭の中にある事をパーッとキーボード叩いて吐き出し、ページ作るのが主義なので。

それと花壇を作ったのと同時に植えたピーマン、また大きな実がぶら下がっていました。どうやって食べるか、考え中です。

日本の友人に話したところ、火で炙って焼いて、それに砂糖醤油をつけて食べると美味しい。
つまり結構イケル、液体燃料摂取の補助食品になると言われました。
但し、消化が悪いので、食べ過ぎてはいけない、とも言われました。

こちらの家の台所は、そこで油物の料理をしたり、焼き物をしたりする構造になっていません。換気扇がないのです。

魚なんか、台所で焼いたらそれこそ大変な事になります。天ぷらでも大変な事になります。
じゃ、どうするのかって?わたしの家ではガレージでやる事にしています。
やっぱり、ガレージで焼くかナー、、、、。

とにかく、このでっかいピーマンで今夜は一杯です。

私の今の悩みは、このピーマンをどう料理するかであります。自分で解決できる事だけ、悩む。自分で解決できない事は、悩んではダメです。
メグ、サチわかった?これって大事な事ですよ。
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