04−10−02 土曜の午後の散歩
広島のNさんという方から、お嬢さんの高校アメリカ留学の件でメールを頂きました。
短期のホームステイでペンシルバニアに来ていたお嬢さんから、アメリカの高校を卒業したいので、あと1年間ペンシルバニアで頑張りたいという連絡があったそうです。

そこで必要なのがアメリカの高校に提出する、日本の学校での履修・成績証明。つまり日本の学校で何を勉強して、どれくらいの成績を得たのかの証明書です。
メールをくれたお母さんは、学校に掛け合ったそうですが、学校は留学には好意的ではなく、書類はご自分で準備をして、そしてそれを学校に持って行き、校長先生のサインをもらうという方法を取らざるを得ない、という状況だそうです。

アメリカの学校に提出する履修・成績証明は、「中学3年生の数学:評価4」、ではなく、「幾何の基礎を120時間、評価4、並びに関数の基礎(二次関数、及び三角関数の基礎、、、、100時間:評価5」、という具合に具体的に勉強をした中身を書かなくてはなりません。

評価も5段階の相対評価で4はどういう位置付け、5はどういう位置付け、というのを説明しておかなくてはなりません。これの作成を学校が実質的に拒否をしたので、お母さんが自分で英語で作り、それを学校に持って行って、校長先生のサインをもらう、という事だそうです。

書類を作って持ってくるなら、サインくらいはしてやるよ、という事なのでしょうか。
このメールを読ませて頂き、その学校のあまりの無責任さに驚くと言うより、怒りを覚えてしまいました。
今日は午後から会社の親睦行事が近所の施設を借りて行われる日。午前中は天気がぱっとしなかったのですが、午後からは青空が広がるいいお天気になったのでちょと出掛けてきました。

場所は家から車で12−3分の所。
広大なプライベートの敷地で、こんな静かで広々とした所が、こんな近くにあるとは知りませんでした。

近くにはホテルが建ち並び、片道4車線の高速道路が2km程のところを走っていますが、ここだけは別世界。
親睦会の方はと言いますと、大体の催し物が終わった後のようで、人もあまり来ていませんでした。

後はホットドッグか何かを食べながらベンチでおしゃべりをする、という程度です。

広いよく手入れされた芝生と、森。ここから車で5分、10分走れば、大きなショッピングモールに、デパートがあります。
というより、ここは市街地のど真ん中です。
こんなど真ん中にこんな広大な敷地を自然で残して手入れし、しかもこれを個人で持っているのですから大したものです。

そんな訳で私とカミさんは爽やかな秋の風景を楽しんで、その後ホットドッグを一つだけ食べて1時間ほどで帰ってきました。
家への帰り道、「Josephinum College」に立ち寄ってみました。親睦行事のあった所から1kmも離れておりません。
この大学はいつ行っても本当に静かで、学生の姿も数人をチラホラ見掛けるだけで、本当に学生がいるのだろうか、という感じです。

以前はこの大学は美術大学だと聞かされていたのですが、本当は宗教大学だそうです。

大学の構内をブラブラ散歩しながら、ふと5年前に会社を辞めていったKさんという社員の事を思い出しました。

Kさんは日本人で、小学生の時にアメリカに両親と来て、アメリカで教育を受けました。そして今の私と同じ会社にアメリカ人と同じ条件で入社しました。
つまり彼は日本人ですが、我々のように日本の会社からの駐在社員ではなく、現地採用の社員として働いていました。

彼の両親は日本人、彼も日本人。ところが彼は既に日本語を殆ど忘れてしまっていました。ですから父親はともかく、英語のあまりできない母親とは、コミニケーションができにくい状態になっていたそうです。

Kさんは5年前にテキサスの大学院に行くという事で、会社を辞めました。会社に入って4年、当時27才だったと思います。彼は日本人なので、私としては少し目をかけたい気持ちがありましたが、現地採用という事で、逆差別になってもマズイので、敢えて普通に接していました。

彼は機械工学が専攻で、当然大学院では関連の更に深い勉強をするものと思っていました。
ところが彼は、宗教関連の大学に行ったのです。将来は神父になるのが彼の目標だというのを、辞めた後で知りました。

辞める1日前に、何も知らない私は彼に個人的に記念品を渡し、あまり面倒を見ることができなかった事を少しだけ言って、しっかり勉強をして、また会社に戻ってきて欲しい事を言いました。

その後何も連絡はありませんが、もう学校を卒業したはずです。今頃どこで何をしているのだろう。

顔は典型的な日本人の顔、パスポートの色は赤で日本国籍、ところが英語しかしゃべりませんでした。

でも私は彼は日本語はきちんと分かっていたと思います。何故なら私が日本語でしかしゃべらない内容を、彼がちゃんと知っていた事が何度もあったからです。

なぜ、彼は日本語をしゃべろうとしなかったのか、そしてエンジニアーとしての道を捨て、神父の道を選んだのか、会えるものならKさんとは、いつか又会ってみたいものです。
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