03−12−01 父よ、安らかに眠れ
11月13日(木)に日本から帰ってきた私。
それから8日目の21日(金)の夜、友人からのメールの返事を書いていました。11時15分、娘から突然のメール、「電話下さい。」、携帯電話からでした。

私の父はこの週の月曜日から、往診に来ていてくれたドクターの病院に入院をしていました。これは私が入院を勧め、ドクターにもお願いがしてあり、私がオハイオに戻ってから4日目でした。
娘には、私は遠くにいるので、私の代わりになって時間の許す限り父の世話をするように頼んであったのです。

娘からのメールに一瞬、悪い予感がしました。
「おじいちゃんが危ない。」、娘は泣きながら電話に出ました。
私は一瞬息が詰まりました。まさか。

父は既に集中治療室に入っておりました。
私の妹、母、それに娘、3人が父の横にいると言っていました。担当のドクターSに電話を替わってもらいました。

ドクターSは少し興奮気味に、淡々と容態を説明をしてくれました。説明の内容は、医学的にどういう状態であるか、理論的な説明でした。
「わかりました。妹に替わって下さい。」
私は妹に電話を替わり、まだ意識のある父に電話を聞こえるようにしてもらい、
「今から行くから。元気で頑張ってくれ、直ぐ行くから、、、、、直ぐ行くから、、、、、。」

これが父に話しかけた最後の言葉になってしまいました。後で聞いた話によると、父は微かに頷いていたそうです。
その9時間後、私とカミさんはコロンバス空港からデトロイト経由、名古屋に向かっておりました。

日本からの知らせを聞いた私は、直ぐに総務のYさんに電話、緊急のチケットの手配をお願いしました。
直後に日系の旅行会社の社員から電話があり、更にその40分後に予約が取れたとの連絡がありました。夜中に会社に出勤して端末を叩き、日本行きのチケットの手配をしてくれたのです。

デトロイトから名古屋空港に着いたのは、翌日の23日(日)の夕方6時頃。
父は既に22日の夜9時過ぎ、つまり電話があって数時間後に亡くなっておりました。通夜の行われた葬儀会館に着いたのが23日(日)の夜9時頃なので、丁度24時間が経っておりました。

父は亡くなる前の6ヶ月ほどで極端に痩せてしまい、その痩せた姿で死に化粧をされ、棺の中に入っておりました。
告別式は翌日の10時から、そしてそのまま火葬場に持って行かれ、午後の2時過ぎには、父は骨になってしまいました。

オハイオは地球の裏側、父の臨終には間に合いませんでしたが、死に化粧姿の父を見ることができ、そして告別式に間に合ったのは幸いでした。
もし飛行機のチケットの手配が1日遅れていたら、全てが終わった後になっていましたから。
父が亡くなる10日前にプライベートで帰国、今考えると虫の知らせだったのでしょうか。
たった10日前には父はかなり苦しそうではありましたが、まだまだ元気でした。こんなに急変するとは、全く想像すらできませんでした。

11日11日の早朝、私は早朝の3時に起き出して1階のダイニングキッチンに行きました。時差ボケで眠れなかったので、コーヒーでも飲もうと思ったのです。
するとダイニングキッチンに父が一人でポツンとおりました。ナゼだかわりません。父は79歳、きっと朝早く目が覚めるからだろう思いました。

私はコーヒーを入れ、しんと静まりかえったダイニングキッチンで父と2人で1時間ほど話をしました。
内容は詳しくは思い出せないのです。でも病気の事、昔の出来事などを話した事だけは覚えています。
4時頃になって父は、「さあ、横になろう。」、と言って自分の寝室に戻っていきました。これが2人でじっくりと話をした最後になってしまったのです。

その日の夕食は母、そして岐阜から来ていた妹、父、そして私の4人で摂りました。
その夕食時にも、父はナゼか寝室から出てきてみんなと一緒に食事をしたのです。普段は苦しいので、居間のソファーで横になりながら食事をしていたのです。
そして最後まで一緒に食事をしました。父はビールもコップに2杯ほど飲みました。
母は、
「今朝は早く起きて信と話をしていたの。疲れたでしょ。」
と言っていたのを覚えています。

私は、これもナゼだか思い出せないのですが、この時の食事の様子を写真に撮りました。これも結局、父の生前の最後の写真になってしまったのです。
翌朝11月12日、私は9時48分の電車に乗るために9時30分に家を出ました。
駅は父母の家から数百mのところにあり、母と妹が駅まで見送ってくれました。

家を出る前に、居間のソファーに横になっている父に、
「またお正月に来るから、それまで元気でいて、、、、。」
と声を掛けました。

父の誕生日は1月2日だったのです。
今までですと私がこのように言うと、父は何か返事をするのですが、この日はじっと私の顔を見たまま、返事をしませんでした。

ジーッと私を見ていました。そしてその時、私は父の目が今まで見たことのない目になっていたのを今になって感じるのです。
目の周りが少し、赤くなっていました。まばたきをもしていませんでした。

私はスーツケースを持って玄関を出ました。
これが父の生前の姿を見た最後になってしまいました。
亡くなるちょうど10日前でした。
その翌日、私は成田からシカゴに向かう飛行機に乗っていました。
1年半ほど前から、父は私の妹の家に行った時は姪達のPCでこのホームページを見るようになっていたそうです。朝から、飽きることなく、毎日毎日ずっと見ていた事を後で知りました。

「信はまだ新しいページを作っていない。」、と文句を言ってた事を妹は教えてくれました。
私は私がオハイオでどのような生活をしているかを、HPを通じて少し伝える事ができてよかったと思っています。でももっとコマメに、ページを作っておけばよかったと後悔しています。

囲碁と読書が唯一の趣味だった父。
今年の7月に帰省した時に、持参したPCの囲碁のソフトをやらせたところ、夢中になり、妹の家ではPCで、自宅ではSONYのPSでやっていました。

亡くなってからお世話になった病院の院長ドクターIと担当のドクターSにお礼に行った時も、「お元気に囲碁をやってみえましたが、、、。」、と言われました。
たった4日間の入院生活中もこれをやっていたのでした。

父は11月22日の明け方、多分トイレに行こうとしたのでしょうか、病室の中にあるトイレと風呂が一緒になっている扉の前、ベッドとソファーの横で倒れていたそうです。
ちょうど、母も妹も、そして私の娘も、誰もいない時でした。看護婦の詰め所の隣の部屋だったのですが、誰も気が付かなかったのでした。

日本から遠く離れて生活している私と、日本に住む家族。
いつかは誰でも来る事です。でももう少し生きていて欲しかった。79歳の生涯でした。
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