長崎:13−03
長崎出島、長崎奉行所、フォン・シーボルト、蝶々夫人、坂本龍馬、亀山社中、丸山遊郭、思案橋、三菱長崎造船所、戦艦武蔵、原爆、長崎プラプラ節、思案橋ブルース、長崎の夜はむらさき、眼鏡橋、長崎美人、鯨料理、長崎チャンポン、皿うどん、卓袱料理、路面電車、坂道、、、、

これらは私が”長崎”と聞いて頭に浮かんできたイメージーを順番に書き並べたものです。ひとつの地名を聞いて、これだけの関連する事柄が次々と頭の中に湧いてくるところは他にはないと思います。
理由としてはやはり長崎というのは他のところにはない独特の文化歴史をもつところであり、それだけ尋ねてみる価値がある街と言えそうです。

3月末の桜のシーズン、長崎を知るにはあまりに短い2泊3日の旅ではありましたが、40年ぶりに長崎に行ってきました。そのスナップショットを簡単にまとめてみました。
中部セントレア空港

長崎まで行くには新幹線で行く方法もありますがやはり飛行機が便利です。

2泊3日の短い旅なので、フライトは朝早くの便をとりました。
載ったのはANA371便で出発は07:55、春休みのせいか、機内は子ども連れが目立ち、満席。

座席は非常に窮屈ですが1時間ちょっとのフライトですから我慢できます。
長崎空港から長崎市内へ

2泊3日の旅ですから小型のスーツケースが1個だけです。
このツーツケース、機内持ち込みができると思っていたら貨物室預けをするように言われました。

アメリカでは貨物室預けの荷物の取り扱いが信じられないくらい乱暴なので、このサイズのスーツケースは必ず機内持ち込みで旅行していましたが、日本国内はダメみたいです。

スーツケースは5分くらいで受け取る事ができ、発車寸前のバスに乗ることができました。
長崎湾

長崎空港は確か世界最初の海上空港だったと記憶しています。
空港は大村湾に浮かんでおり、対岸にはかつて大村空港と呼ばれていた施設が長崎空港の一部として使われているそうです。

バスにのって空港を出ると、湾を挟んだ陸上側の飛行場施設が遠くに見えます。
ここは旧海軍の大村航空隊があったところ、今は海上自衛隊の航空隊も使っています。
長崎駅前

バスは40分ちょっとで長崎駅前のバスターミナルに到着します。

バスターミナルを出ると正面は長崎駅、路面電車に乗るために陸橋を上がると長崎湾を挟んだ対岸の稲佐山がよく見えます。

天気は晴れ、気温は20℃くらいで観光には最適の日和です。予報外れてよかった〜。
路面電車でホテルまで

長崎は路面電車とバスが非常に便利で、これをうまく利用すると効率よく移動できます。

ホテルは思案橋にあるので、#4の路面電車に乗ります。料金は一律120円です。

今でも路面電車が走っている都市は日本全国でいくつくらい残っているのでしょうか。
路面電車はバスとは違う安定感というか、街と一体になっている不思議な感じがする乗り物です。
風頭公園(1)

ホテルに荷物を預け(時間が早く、まだチェックインができなかった)、観光開始です。

先ず風頭公園に行きます。この公園はほぼ山の山頂にあります。
ですから下から登ると結構きハードなため、私達はバスで山頂に行き、そこから降りていくコースを選びました。

お天気良し、桜は満開、何もいう事なし、です。
風頭公園(2)

満開の桜の下では小学生のグループがお弁当を食べていました。
一段高いところに腰掛けているのはグループを連れてきたボランティアーのおばさんでしょうか。

子ども達はワイワイ言いながら、実に楽しそうです。きっといい想い出として大きくなっても残ると思います。

この他にも家族連れが何組もお弁当を開いていました。実にいい風景でした。
風頭公園(3)

山頂付近ではおじさん、おばさんグループがやはり楽しそうに花見で一杯をやっていました。

断りを入れて写真を撮らせてもらったら、一杯飲んでいけ、と声を掛けられコップ酒を2杯も頂戴してしまいました。

このグループはボランティアーの長崎観光ガイドの方々でした。
ありがとうございました。
風頭公園(4)

ボランティアー観光ガイドの方々が一杯やっていたのは坂本龍馬像の横でした。
龍馬もさぞかし一杯飲みたかった事だと思います。

坂本龍馬は長崎にも縁が深く、いろいろな事をやっています。
像の横にある旗は海援隊の旗だそうです。
風頭公園(3)

龍馬像の横から長崎湾を眺めるとこういう風景が拡がっています。
対岸には三菱長崎造船所、それに手前の長崎の街並みが一望に見えます。

長崎は平地が殆どない、山に囲まれたところである事が一目でわかります。

風頭公園、訪れる観光客も少なく、静かな公園でした。
長崎の猫

長崎は猫の多い街です。街のあちこちで猫を見掛けます。

そして猫たちは概ね昼寝をしたり、日向ぼっこをしており、忙しく動き回っている猫は見掛けません。
この猫、女の子が散々いじっても寝たままです。

長崎には尻尾が殆どない(5cmくらい?)猫がいますが、これは中国猫とのハーフだそうです。
亀山社中記念館(1)

亀山社中とは坂本龍馬が結成した貿易会社で、ここで得た利益で海軍、航海術などの拾得に努め、国事に奔走した組織だそうです。

亀山社中はその後海援隊になったそうですが、坂本龍馬は長崎を中心に大いに活躍をしてグラバー商会を通じて武器を買い、薩長連合実現に貢献したそうです。
亀山社中記念館(2)

この記念館にはみるべきものはあまりないのですが、江戸末期の建家がどういう雰囲気であったか、はよくわかります。

亀山社中は日本最初のカンパニーであった訳ですからここが本社だったのですかね〜。
本社玄関は驚くほど狭く、人がすれ違うのもままなりません。
深崇寺

亀山社中記念館付近から寺町方面に続く路を”龍馬通り”というそうです。
この付近はいくつもの立派なお寺が並んでおり、武家の墓が一杯あります。

この寺もその中の一つで、苔生す石垣に囲まれた威厳のあるお寺です。

ここまで降りてくるとやっと平地です。ハードな坂道でしたが降りる一方のコースだったので、殆ど疲れませんでした。
皿うどん

カミさんの案内で寺町を抜け、中島川沿いにある構えのハデな中華レストランに入ります。
ここで昼食です。

今朝は朝食を6時に食べ、動き回っているのでお腹が空いています。
定番の長崎チャンポンと皿うどんを食べてみました。
チャンポンは思ったよりスープが甘く、量は多く感じました。
このレストランに入っている客は殆どが観光客のようでした。
中島川の鯉(1)

長崎は小さな街で殆どのところが歩いて行けそうな感じです。
チャンポンと皿うどんでお腹も一杯になった事だし、中島川沿いに少し歩いてみます。

川は市内を北東方向から南西方向に流れており、川には石でできた橋がいくつも架かっています。

川には大きな金魚、もとい!、鯉がたくさん放流されています。
中島川の鯉(2)

川を悠々と泳いでいるのは60cmから80cmくらいはある立派な鯉です。

ここで私の特技を少しだけ披露してみました。
ある事をやるとご覧のように鯉が足下に続々と集まってきます。

鯉はどんどん川下に泳いでいって、やがて海に入っていくと思うのですが、きっとどこかで堰き止められているのでしょうね。。
眼鏡橋

これがかの有名な眼鏡橋です。
そうです、瀬川英子の「長崎の夜はむらさき」(古っ!)でも謳われている、あの眼鏡橋です。

最初に作られたのは1600年代だそうで、1982年7月の長崎大水害で崩落、その後再建されています。

長崎大水害、私はこのニュースを出張中のカナダ・トロントで聞いたのを覚えています。
当時カナダでも大きなニュースになっていました。
平和公園(1)

平和公園というのは全国にいっぱいあって、多くの平和公園は墓地公園です。

長崎平和公園は原爆攻撃を受けた都市として、平和を願うために設立された、とあります。

公園の億には有名な平和祈念像があり、その手前には世界各国から寄贈されたモニュメントが置かれています。
平和公園(2)

韓国人の団体さん。ガイドの話を2〜3分聞いて写真を撮ってどこかへ行ってしまいました。

ここで白人の50代の女性を見ましたが、あれ?どこかで見た顔、、、。
何と、今朝のセントレアからのフライトで私の後の席に座っていた女性です。

私は乗り物に乗って、一緒になった人とその日のうちに全く別な場所で会う、という経験をこれまで何度も経験しています。
私自身、不思議な気持ちになります。
稲佐山展望台(1)

本日最後に行くところです。バスに乗ってケーブルカーの乗り場に行きます。
案内のとおり歩いていくと神社があります。

アレ、路を間違ったかな?
乗り場はこの神社の左奧にありました。18:00までは20分おきに往復しており、18:00以降は15ごとです。

乗ったは17:00、2組の夫婦で4人だけでした。
稲佐山展望台(2)

山頂までは5分ちょっと出到着、早速展望台に上がってみます。
ナルホド、長崎の街が一望で見えます。この山は標高333mで東京タワーと同じ高さで、360°の展望ができます。

今日行った風頭公園も見えるし、双眼鏡で覗くと坂本龍馬像も見えます。
こうやって見ると確かに山の山頂付近まで家が建っています。
長崎は平地が少ない事がよくわかります。
稲佐山展望台(3)

三菱長崎造船所も眼下に見えます。
戦艦武蔵を建造したドック、当時一番苦労したのは建造中の姿を隠すこと、それに進水の時に勢いがついて、対岸にのし上げるのを防止する事だったそうです。

確かにこうやって見るとドックから対岸までの距離の短さはよくわかります。

建造中の戦艦の姿はどうやって隠したかって?
棕櫚(しゅろ)で囲ったそうです。
稲佐山展望台(4)

長崎の夜景は”1000万ドルの夜景”だそうです。
太陽が西に傾き、やがて姿を隠し、闇が少しずつ空を包み出すと、街の灯りが灯り出します。

少しずつ、少しずつ暗くなり、少しずつ少しずつ灯りが点ります。
これを40分ほどかけて、やがて空は真っ暗になり、長崎の夜景が眼下に広がります。

これを見ずして長崎は語れません。
思案橋のネオン街

稲佐山からの夜景を満喫し、思案橋に戻ります。
ホテルは思案橋の飲屋街の東端にあり、夜になると飲み屋のネオンで一杯になります。
客引きも盛んです。

時間は既に8時、今日は朝5時に起きて飛行機に乗って長崎に来てまる1日観光をしましたのでちょっと疲れました。

さあ、これから遅い夕食です。
リッチモンドホテル

宇都宮とか東京への出張で使っているホテルで、部屋が広いのが気に入っています。

スーツケースは既に部屋に運び込まれており、カードキーを受け取り、そのまま部屋へ。

手荷物を部屋に置き直ぐに外へ出て食事です。
行く予定にしてあった店は満席とかで入れてくれなかったので別の店へ入って新鮮な刺身で一杯やりました。

極楽でした。

2日目の朝

ホテルのロビー、やはりこのホテルは観光客というよりビジネスマンの泊まりが殆どです。

このホテル、結構人気のようで私達が泊まった8Fの部屋は殆ど満室でした。
人気の理由のひとつはやはりネオン街が近いからですかネ〜。

ロビー横のレストランで朝食バイキングをしっかり食べて2日目の行動開始です。
グラバー園まで

思案橋から路面電車に乗り、西浜町で乗り換えて石橋という駅で降ります。

乗り換えはまた120円を払う必要はなく、乗り換え券を運転手さんにもって、それで次の路線の電車に乗ります。
これは便利です。

ここからグラバー亭にはスカイロードというところを通って行きます。
グラバー園(1)

ここはスコットランドから渡来したトーマス・グラバーが1863年に住まいを建築したところです。

当時グラバーは25才、貿易会社を設立して幕末の日本の志士達を影で支えて、明治維新を手助けした人です。

このアングルからグラバー亭を見て、40年前にここに来て写真を撮ったのを思い出しました。
グラバー園(2)

それにしても白人の観光客が溢れています。
理由はすぐにわかりました。

昨日は見えなかった大型客船が長崎港に入港、ここから白人の観光客がどっと長崎の街に繰り出しているのでした。

どこから来たのか老夫婦に聞くと「オーストラリアから来た」、と答えてくれました。
グラバー園(3)

グラバー園の中には10棟以上の建物が散在しており、ゆっくり見て回ると結構時間がかかります。

写真は旧リンガー住宅と呼ばれている建物で、イギリス人フレデリック・リンガーという人が住んでいた家です。
このイギリス人も貿易会社をつくり、日本の近代化に貢献した、と説明にあります。
グラバー園(4)

旧リンガー住宅の中です。感じからするとリビングルーム(居間)のようです。
普段は家族がここで生活したのでしょう。

主要な全部の部屋には暖炉が作られており、当時から暖房には十分考慮された家であった事がよくわかります。

残年ながら展示してあるソファーとか家具の手入れは全くダメで、全てにホコリが積もっていました。
グラバー園(5)

一服です。隣では豪華客船から来たと思われる白人達がコーヒーを飲んでいます。
小さな紙コップに入ったコーヒーが3ドル、彼等はどう思っているのでしょうか。

アメリカとかヨーロッパではこういう公園などは十分な整備が行き届いているのが普通で、芝生とかも栄養が行き渡った、実に気持ちのいい緑をしています。

ここは残念ながら十分な整備がされているとは言えませんでした。
大浦天主堂

日本最古の現存するキリスト教建築物です。
(1865年設立)
正式名は日本二十六聖殉教者堂というそうです。

ここで思い出します、、、。
メキシコのクエルナパカに行ったとき、日本で布教活動をしていたメキシコ人が豊臣秀吉に処刑され、日本二十六聖人の中に入っている、、、。

これって遠藤周作の小説「沈黙」出てくる話?
何だかグチャグチャになってきた、、、。
長崎と言えば、、、

そうです、カステラであります。
文明堂というのは有名な老舗だったと記憶していますが、あしこちにのれん分けをしているので、実は文明堂何とかという会社は全国に一杯あります。
(桑名の貝新と同じですね)

この大浦天主堂の横にあるのは総本店という事で本家大元のようです。

中を覗くと誰も入っていません。カステラは結局試食を一杯させてくれた店で買いました。
シー・プリンセス

グラバー園から見えた豪華客船を見に行きます。
8万トンの大型船で、近くで見るとびっくりするほど巨大です。(8万トンだそうです)

ゾロゾロと乗船客が団体で出てきます。どこから来たのか聞くとやはりオーストラリアと答えます。

「この次はどこに寄るの?」
「オオカサに寄って、そのあとトウキョウです」

皆さん楽しそうでした。
昼食を食べた大型レストラン

この日もチャンポン麺を食べました。
昨日と同じようにハデハデの外観の中華レストランで観光客でごったがえしていました。

何とこんな混雑したレストランにもシー・プリンセスから上陸したと思われる白人の老夫婦が来ており、何だか目を丸くしておりました。

昨日のレストランと比べると味も量も少し劣ったイメージでした。
旧英国領事館職員住宅

オランダ坂の方に向かって通りを歩いていると古いレンガ造りの建物があります。

この通りの海側には旧英国領事館があったのですが、あとになって地図を見て知りました。

私達は領事館の裏手にあるこの建物を横をブラブラと歩いたと言うわけです。
オランダ坂

”長崎のオランダ坂”、これを聞いたことがない日本人はいない、というくらいに有名なのでとにかく行ってみました。

感想、、、只の石畳の坂でした。

と言ってしまえば身も蓋もないので、ま、かつての外国人居留地の情緒があった、と言うことにしておきます。

昔、長崎では東洋人以外の外国人を”オランダさん”と呼んでいたそうで、この辺には”オランダさん”が多く住んでいたのでしょう。
東山手十二番館

この建物はオランダ坂を上りきった辺りにあり、1868年(明治元年)に建てられたそうで、当初はロシア領事館、その後は宣教師などの住宅に使われたそうです。

建物の内外は修復され、旧居留地私学歴史資料館となっています。
中に入ってみまると土産物屋があり、その壁にはナゼか昔の上海の写真が一杯貼ってありました。

何で上海の写真が貼ってあるの?意味不明です。
中華街入り口

横浜中華街、神戸南京町に並んで有名な長崎の中華街です。
入り口にあるのは玄武門です。手前は広場になっておりこの横でおじさん達が町議をやっていた、という訳です。

長崎は江戸時代の鎖国下でも中国との貿易が認められており、長崎の人口7万人に対し、中国人が1万もいたそうです。
支那将棋?

広場の端っこの方では何組もの人達が盤を囲んでいます。
中華街の入り口の広場で盤を囲んでいる、それはもう支那将棋に決まっとる!!
と言いたかったのですが、普通の日本将棋をやっていました。

サンフランシスコの中華街のように、現金が飛び交っている様子もなく、みなさんおとなしく紳士的に駒を進めておりました。
何だか中華街らしくないな〜、、、。
中華料理

私は世界中で中華料理を食べました。中華街の奧には本場の味の中華料理もありましたが、多くはその国の味にモディファイされていました。

ここ長崎も”Japanedse Chainese”で、すんなり喉を通る味のようです。

オハイオに住んでいたとき、近所の中華料理屋でテイクアウトを頼むと待っている間、”Master, please have a beer”、と言って横のバーでいつもビールのサービスをしてくれたっけ、、、。
中華街

長崎の中華街はそれほど広くはありません。
しかし江戸時代に長崎の人口が7万人だったときに中国人が1万人いたそうですから、非常に大きかったと言えます。

表通りをブラブラ歩きましたが、路地の奧に入ってみるのが面白そうです。
レストランなどを覗いてみましたが、支那服のクーニャンは見えませんでした。
長崎出島(1)

長崎の出島を知らない日本人はいないと言ってもいいほど有名なところで、あの扇形に描かれた当時の出島の絵は、どんな人でも一度は目にした事があると思います。

現在の出島は明治になってから周りが埋め立てられたり削られたりして、あの懐かしい絵のように”島”ではなくなっています。

この日は中華街方面から入ってみました。
長崎出島(2)

入るとすぐにかつての出島を再現したかなり大規模な模型が作られており、当時の出島の雰囲気の全体像を把握できます。

やはり頭にこびりついている、島は扇形をしており、路は少し曲がっています。
想像していたより大きな島だったようです。

実際の出島では当時の建物などを復元する事業が進んでいます。
長崎出島(3)

復元された建物の中はミニ博物館になっており、工事中に発見された様々な掘り出し物も展示されています。
中には牛の骨とかも展示されており、出島の中ではオランダ人達が食べる牛も飼育されいたと、あります。
使われていた食器などは中国風のものが目立ち、オランダから持ってきたものと思われるものはあまりありませんでした。。
長崎出島(4)

毛唐の餌食になっている大和撫子が描かれております。

オランダ人の顔の描き方は赤鬼のようで、当時の日本人から見ると、こんな怖い顔に見えたのがよくわかります。

左の絵は食事のようすで配膳をする日本人女性が描かれています。
こういう絵を見て説明を読み、当時をあれこれ想像するのは非常に楽しいですね。
長崎出島(5)

出島の外観は大きく変わってしまいましたが1996年から復元作業が開始されており、このように一部は当時を偲ばせる姿になっています。

シーボルトがいた1820年頃の資料はかなり豊富に残っているそうで、それらを検討しながら作業は進められています。

建物は全部日本建築ですが、19世紀にはヨーロッパではガラス窓が使われており、復元された建物はにはガラス窓が使われています。
長崎出島(6)

オランダ商館長(だったと思います)の寝室で、広い畳の間にベッドを置いて、衝立もあります。

という事は靴を脱ぐ生活をしていた事になります。
部屋の中の白壁、梁、天井は当時の資料に基づきそれを同じ工法で再現したそうです。

この商館長の建物は入ろうかどうか迷っていたら、見学を終えた女性から、「ここは絶対に見るべきですよ」、と言われたので入りました。
そのとおり、入るべき建物でした。
長崎出島(7)

この天秤はオランダ船が運んできた砂糖などを計るためのもので、どうやって使っていたか、当時の日本の役人とオランダ人が書かれた絵も展示されています。

人足が麻袋を担ぎ、二本差しの役人が帳面をつけ、オランダ人が横で文句を言っているような様子の絵などは実に興味深い。
当時から日本人の計算能力はずば抜けていましたからこのオランダ人、ごまかしがばれてとりつくろっているのかな?
長崎出島(8)

出島には約50棟の建物があったそうで、その中の25棟の復元が計画されており、15棟ほどが完成されています。
全部できたらまた来たいものです。

この島の中で生活していたオランダ人達、毎日何をしていたのでしょうか。
きっと1日に1〜2時間何かをやって、あとはゆったりと生活をしていたのでしょう。

出島はロマンを感じるところでした。
帰りの路面電車

出島の見学を終え、早めにホテルに帰りました。

心配した中国人の観光客に遭うことなく、平穏無事な長崎観光をする事ができました。

帰りの電車も客船から上陸してきた白人の団体さんでごったがえしていましたが、わりとマナーもよかったのでそんなに気にはなりませんでした。
長崎空港

長崎空港は出発ゲートは9つしかありません。
気になったのがゲート内でのアナウンス。
ボリューム一杯で出発の案内、荷物を忘れないようにとかの注意、などをひっきりなしに放送します。

うるさいというか、イライラします。アメリカの空港は基本的にシンとしています。出発のゲートの変更があってもアナウンスはないのが普通です。

時間を計ってみたら待っていた40分間で、20分間は何かの放送をやっていました。異常です!
ピーチエアー

確かANAの子会社のLCC?
私はまだLCCには乗った事はありませんが、時間の制約をあまり受けない立場の人が利用するには問題はないという人がいます。

サービスは期待しない、ディレーとかキャンセルは覚悟、とにかくA地点からB地点に移動できればごっつあん、という事でしょうか。

私も間もなく時間の制約が大幅になくなる身分、そうすればLCCのユーザーになります。
セントレア空港から1時間ちょっと、長崎は思ったより近いところにありました

2泊3日の長崎の旅、長崎の主要な観光地は全て歩いていける範囲にあると言っても過言ではありません。
春休みで桜のシーズン、それなりに混雑をしているのではないか、と覚悟して行ったのですがどこへ行ってもゆったりと観光をする事ができました。

長崎は江戸時代から近代にかけて日本歴史の大きな舞台です。ですから事前にしっかりと予備知識を詰め込んで長崎に行けば、非常に興味深い場所になりますがこれを怠ると訪れる価値は半減します。
今回はシーボルト記念館に行く余裕がなかったのが少々残念でしたが、ま、もう一度来る理由を残しておくのも悪くはないと思います。
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