文字の文化
行き先案内は文字

職場では誰かが転属したり、新しく配属されたりすると送別会、歓迎会をよくやります。大体場所は決まっているのですが、それでもたまに私なんかが全く知らない、新しい場所でやることがあります。
送別会、歓迎会と言っても何の変哲もない田舎町のピザレストランか、せいぜいファミリーレストランの一角を借りてビールとちょっとしたつまみを食べて終わりなので、日本のようにあんまり構えて参加する必要はありません。

それに大体が会費は無料です。送別会の費用を個人負担にしたらアメリカ人は誰も参加なんかしません。誰が負担をするかというと、いわゆる親睦費という事で会社が負担をするのです。
但し、飲み物は別で、例えばビールを2本飲んだら5−6ドル、これは個人が負担をします。

一度あるアメリカ人が、「来週は私の誕生日です。XXXというレストランで親戚も集まって、パーティーをやるのでSHINも是非来て下さい。」、というので行ったらそのレストランで私が食べた食事代とか、飲み物代は全部私の個人負担だったという事もありました。
この場合、誕生日なので皆で祝う、集まった人が誕生日のその人をお祝いする、つまりそれぞれ費用は負担をするという事のようです。
「来て下さい=招待者が費用負担」、ではない場合があります。

このようにいろいろとアメリカ人と交際(?)をすると、レストランなり、家なりに行かなくてはなりませんが、この時の
道案内が大抵の場合、地図がないのです。地図なしでどうやって場所を案内するかって?
それは言葉、大抵の場合は文章(文字)でその場所までの行き方を案内するのです。
普通のアメリカ人は地図は書けない!?

「何号線を行って、XXXX(通りの名前)を右に出て、2つめの信号を左に曲がり、YYY(通りの名前)に出る。それを真っ直ぐに1マイル行ってZZZ(通りの名前)を左に曲がり、、、、、。」
てな具合で目的の場所を表します。

これは当初、かなり戸惑いました。
このような案内を片手に、通りの名前を確認しながら車を運転するのには私は慣れていなかったからです。
通りの名前は英語で(当たり前)しかも大体が固有名詞で、(Stanfield Rd とか Cramer Creek Ct とか
Rivers Ave とか、とか)で表現されており、かつその看板が非常に小さい。

そこで最初の頃はアメリカ人に簡単な略図を書いてもらう事にしました。
「成る程、成る程、こうやって行くのか。」
ところが、その地図を頼りにして行くと、全く目的地に辿り着けない事が何度もあったのです。

というのは地図が全くでたらめなのです。東西が逆なんてのはザラ。線を2本書いて大体この辺、なんて書き方をする連中もおります。略図を書くのに北を上にして書く、なんてのは皆無に近い。
第一距離がでたらめで、5マイルの線より、別の道が随分長く線が引いてあるので、5マイル以上と思ったら大間違い。2マイルくらいしかなかったりで、もうメチャクチャ。

そんな訳で、アメリカ人には行き先の地図を書いてもらう事は諦めました。
それに最近は文章だけの案内でも、運転をして目的地に辿り着けるようになってきております。
慣れって不思議なものです。
文章だらけの報告書

私は技術部門で仕事をしております。毎日アメリカ人の作った技術資料に目を通します。
最近は大分慣れましたが、これがまた大変なのです。

何が大変かと言うと、大体がびっしりと文章で埋め尽くされており、最初からしっかりと順番に読んでいかないと何を言っているのかわからないからです。
最後まで読んでも、「さて、結論はナンヤ???」、という報告書も一杯あります。

逆に日本から来る技術文書は大抵の場合は、5分も目を通せば何を言っているのかわかるのです。
最初の頃は、
この違いは英語と日本語による言葉の違い、つまり自分の英語力から来るものと思っておりました。ところがこの違いは言葉ではなく、表現方法にあるのです。

日本の報告書は図と表が多用してあり、文章はこれを補足説明するために用いられているのですが、
アメリカ人の作った資料は、図と表で表す部分を、延々と文章で表現している事が多いのです。
更に始末に負えないのは、実験結果などをグラフで表現する事が少なく、数字が羅列してあったりするので、気の短い私なんかはイライラになります。

10ページも15ページもある報告書を、ウンウン言いながら読んで、
書いてある内容から簡単な表とかグラフを自分でフリーハンドで作り、自分なりに別な方法で理解しようとする時もあります。

このような報告書を苦労して読んで、最後に、「私は、この原因についてはXXXと思うが、JIMはYYYと言っている。」、なんて文で締めくくってあると、私は完全にキレて、「オイ、ちょっと来い。」、となります。

調べた結果から結論を2つ出して、自分では判断しないという責任回避の形で締めくくる、これはアメリカ人のよくやる手で、結論は他人に出させようというパターンなのです。
日本は文字に頼らない文化?

アメリカでは旅行の本でも、料理の本でも、視覚に訴えて表現をするという事が非常に少ない。とにかく文章で延々と表現してあります。
これはアメリカだけではなく、私の知る限りでは日本以外の多くの国がそのような傾向にある感じです。

私が日本からの書類を使ってアメリカ人に「説明」をする時は、非常に楽です。でもその書類をポンとアメリカ人に渡して判ってくれるかというと、そうではありません。多くの場合、かなりの「説明」が必要です。
日本の書類の欠点は、そこに書いてある事の「裏を読む」必要がある点です。
裏を読むためには、関連した知識・情報が読む側に予め必要で、これがないと理解できない事が多いのです。

日本からの書類には最近特に困っております。日本からの書類を翻訳してもさっぱりアメリカ人に通じないことが頻繁に起きているのです。
しかし、書き側と同じ関連した知識・情報を読み側が持っている場合は極端な話、一瞬にして理解できます。

逆にアメリカ人の作った書類は読めばわかります。が、書いてある事以上のものは何もわからないのです。
読めば読むほど疑問が出てくる。書いてない事はわからない、当然です。
ですからよくできている書類は、延々と細かく書いてあるので、理解するまでに非常に時間がかかります。
でも中身は非常に論理的です。

同じ内容の事柄を、アメリカ人が作った書類と日本人が作った2つの書類を、タイ人に渡したところアメリカの方に軍配が上がったという例がありました。
短歌、俳句のように凝縮した言葉では外国人に物事は伝えられない。どうも日本人のやり方に分が悪いようです。
文字で論理性を追求

そんな訳で私はちょっとややこしい話とか、会議に臨むときはポイントを書いたかなり詳しいメモを作り、プロに英訳をしてもらいます。
効果は2つあって1つ目はアメリカ人に自分の考えをきっちりと伝える事ができる点、これは英語力のなさもカバーしてくれます。
2つ目は自分の考えのあいまいな部分を明らかにできる点です

文字できっちり表現できる場合は、(ある程度)論理的になっている事が多く、そうでない時はアメリカ人から散々質問されて立ち往生になるという経験をしています。

でも質問がないからって、安心はできません。つまりアメリカ人が質問ができない程、私の方がトンチンカンな事を言っている場合があるので。こんな時は半日くらい落ち込んでしまいますケド。

毎日漫才やっている私ですが、それなりに悩んでおります。
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